ツマグロヒョウモン

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~以前は迷蝶だったのだが~

昨日の朝、アザミの花を眺めていると、ふわふわとやって来たツマグロヒョウモンの雌に出会った。珍しい蝶に出会ったものだと思ったが、その日のうちに、別の場所で2回見かけた。また、今日も2回見た。

ツマグロヒョウモンは、雌雄で翅の模様が大きく異なる蝶で、特に雌の色模様は素晴らしい。そして、本来は南方系の蝶であって、私の住む千葉県には、少し前までいなかった蝶である。

鮮やかな雌の色模様は、やはり南方系の蝶で毒をもつカバマダラに擬態しているとされているが、私の感想としては、カバマダラの毒による捕食防御効果さえ怪しいと感じている(→八重山を歩く(4) 八重山の蝶)のに、それに擬態する必要性となると、かなり怪しいような気もするのだがどうだろうか。

まあ、それはともかくとして、雌の翅のオレンジ~スミレ~白の地に黒紋の色模様は文句なく美しいと思う。なお、前記事のメスグロヒョウモンもそうだったが、このヒョウモンチョウも性的二形を示し、雄の翅は、オレンジ地と黒紋だけの典型的な豹柄である。ただ「褄黒豹紋」の和名が示すように、後翅の外縁に黒い縁取りがやや特徴となる。

さて、この蝶の分布域はかなり広く、アフリカ北東部から東南アジア、オーストラリア、そして日本など東アジアにまでというふうに熱帯から温帯域にかけてである。ヒョウモンチョウの仲間は比較的涼しい地方に分布するほうが多いと思うが、このような南方系の分布もこの蝶の大きな特徴だろう。

そして、日本では、南西諸島に多く分布し、九州、四国のほか、本州では紀伊半島あたりまでというふうに図鑑などでは記載されていて、稀に関東で見ても迷蝶という扱いだった。しかし、どうもこの20~30年くらいの間に急速に生息域を北上させ、ごく最近では栃木県など北関東でもほとんど定着してきているようなのだ。

北上の原因などは、そう簡単に判るものではないと思うけれども、一般には、幼虫がスミレ類を食草とし、園芸種のパンジーなどでもよく食べることから、こうした園芸植物の出荷によって分布を拡げたのか、又は、単純に地球温暖化の影響などという憶測がよく見られる。

私は、そうした人間の影響よりも、この美しい蝶が、主体的に勢力圏を広げ、自らやってきたんだと信じたいのだが。

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メスグロヒョウモン

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~蝶の中では際立った性的二形~

すっかり秋が深まって、朝夕にはほどほどの冷え込みが感じられるようになった。あたたかなこの地方だから、日が射してくれば、たちまち暑いもといえるほどになるので、まだ冬の気配というには遠いのだが、休日朝の林の散歩が気持ちいい。

散歩の帰り道を辿る頃、日も十分に高く昇って気温は上がり、赤トンボやシジミ蝶やアブも飛び始めた。
すると、茶色というのか暗褐色というのか、ともかく暗い背景にくっきりと白い条を浮かび上がらせたやや大きめの蝶が、ふわりと目の前を飛んでいった。

その姿に、すぐにオオイチモンジの名前が浮かんだ。しかし、このあたりにオオイチモンジがいるということは多分ないし、時期も違う。

直後、その蝶はふわりと近くのアザミに止まった。けっこうな大きさがあるので、動作も翅の文様もとても優雅なものに見える。

蝶の翅をよくみると、イチモンジ、フタスジ、ミスジといった暗褐色に白条の蝶のグループとは、スジの形がどうも違うことがわかる。この蝶はヒョウモンチョウの仲間なのである。

ヒョウモンチョウといえば、もちろんオレンジ色に黒い点の「豹紋」がトレードマークなのであるが、この蝶は、オスが普通のヒョウモンチョウの仲間らしい姿であるのに対し、雌はイチモンジチョウのような色模様をしているのである。

それにしても、この優雅な姿の蝶に、あまりにダイレクトな名前は、やや興ざめる気もするが、「メス黒」であるのは確かである。いわゆる「性的二形」というやつだ。

「性的二形」というのは、一般に雌雄の第二次性徴の差がはっきりしていることをいう。つまり生殖器以外の部分での雌雄差が大きいことである。

カブトムシや鹿などのような角を持った生物などが一番分かりやすいだろうか。
様々な生物に見られるものではあるが、蝶としてはメスグロヒョウモンはかなりはっきりしている方といえるだろう。

じっと見ているうちに、やがて蝶はふわりと舞い上がって、林の樹木の上のほうへと姿を消していった、あたりは光が消えたようにまた静かな林に戻る。10月も下旬に入り、こうして蝶を頻繁にみることのできる季節も終わろうとしている。しばらくは、林の散歩道も静かな道となるだろう。

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秋分の日

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~さすがヒガンバナ、彼岸の中日に満開~

彼岸の中日、秋分の日となって、歩く道々の風景がすっかり秋らしくなったと感じる。

秋分というのは、ご承知のように昼夜等分の日、太陽が天の赤道を北から南へ横切って行く日であって、暦の上で重要な日である。

しかし、暦といえば、みなさんはこうは思わないだろうか、秋分は秋のど真ん中というけれど、秋なんて始まったばかりじゃないかと。

日本の暦は、何ともせっかちすぎると思うのだ。
つい先日まで、ジリジリとアブラゼミが昼に大合唱し、真の盛りを過ぎたとはいえ、暑さは真夏とほとんど変わらなかったのだが、今はコオロギなどの虫たちの涼しげな声が聞こえる夜は、すっかり凌ぎやすくなった。
様々な部分で、ああ、秋が始まったなあというべき環境が整ったのはほんのこの数日だと言えるのではないか。

日本の暦は、春分、夏至、秋分、冬至という、太陽の位置の基準日を季節の真ん中におく。しかし、これが季節感と暦の不釣合いの元である。確かに、そのようにすれば、太陽の南中高度(お昼ごろの見た目の高さ)と、これにともなう日光の明るさは、これをグラフにでも描けば季節とキッチリマッチする関係になるだろう。

しかし、季節=自然環境は、主に気温に支配されて移ろうというべきであるし、その気温(一日の平均気温)というものは、太陽に温められて徐々に温まり、また、冷えて行くのも遅れてゆくのであって、結局、太陽の位置基準からみると、一月半くらいピークが遅れるのである。

このため、暦と実際の感覚との差異をみると、暑さの絶頂時にいきなり秋が始まってしまい(8月の立秋)、秋らしくなったなあと思ったら、それはもう秋の真ん中で(9月の秋分)、もう一月半すれば立冬だ。

俳句など、風情を求める世界では、少しづつ密かに始まる次の季節を探すことも、大きな楽しみの一つといえるだろうけれど、私の感覚としてはどうも馴染まない。

洋の東西の好き嫌いではなく、暦については、西洋暦のように、春分、夏至、秋分、冬至という、太陽の位置の基準日を、季節の真ん中ではなく、初めとし、秋分は秋の始まりとしてもらいたいものである。

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カマキリの偽瞳孔

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~小さな黒目はかわいいけれど~

カマキリの目は、なかなかいかしている。
カマキリを間近で見慣れている方はよくご存知だと思うが、大きな目の中に人の目の黒目と似たように小さな黒い点があって、その点がこちらを向いて、注意深く様子を窺っているように見えるのである。

しかし、昆虫であるカマキリの目は、人とは違い複眼であり、小さな目が球状に集まっているその全部が目であって、人の黒目(瞳孔)と同じようにそこだけが見えている場所ということではない。

実はこのカマキリの目の中の黒い点は、それ自身の構造的なものなのではなく、カマキリの目を観察しているこちら側が、球状に集まった数ある複眼の中でそのあたりだけ奥まで見通せるという角度の部分であり、その結果として、光が返ってこないから黒っぽく見えるというわけで、単に観察者側にだけ見える見かけ上のものに過ぎないのである。

そして、この黒点を偽瞳孔といい、その他の部分は、観察者の目からは奥まで見えないので、個々の目の内部の反射光で明るく見えているに過ぎないのである。

試しに、こちらを向いているカマキリの偽瞳孔を観察しつつ、同時に手に持った鏡で違う角度からカマキリを覗き込めば、そこにもまた、鏡を通してこちらを窺っていると感じる位置、つまりは実像とは別の場所に偽瞳孔を見つけられるだろう。

ただし、カマキリの目には、これとは別に、夜になると複眼全体が黒っぽくなり、これによって総合的な集光力を上げられるという面白い能力も持っているから、なかなか侮れないところもある。

偽瞳孔は、トンボやバッタなどにも見られるのであるが、カマキリのものとは若干状態は違う。カマキリの偽瞳孔は、本当の瞳孔を見慣れている人間にとって、人の目の瞳孔とかなり似ているから、それがいつもこちらを見ているように感じる分、ちょっとした親しみなど感じてしまうものである。仕組みがどうであっても、この偽瞳孔のために、カマキリの表情を豊かに見せていることは間違いない。

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次世代のアリジゴク

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~何匹かの成虫が巣立った後に~

我が家の軒下に住むアリジゴクが、6月から7月に次々と巣立っていった。
巣立っていった彼らの余命は僅かな日数であったとはいえ、これまで見守ってきた幼生たちが、美しい翅を持ったウスバカゲロウとして、長い地下の生活から空へと旅立ったことは、やはりうれしく思われた。

一方、今シーズン中には変態を遂げなかった何匹かのアリジゴクが構えるすり鉢も残ったが、8月に入ると、そのすり鉢の合間にいつのまにやら小さな小さなすり鉢がぽつぽつと目に付くようになった。可愛らしいその小さなすり鉢が日増しに増えて、これもまたうれしく感じたのだが…

もう何回となく書いたことではあるけれども、繰り返して書くと、ウスバカゲロウは短命であると儚まれがちであるのだが、実際に短いといえるのは成虫の期間に限った話であって、一生の長さがさほどに短いわけでもない。また、昆虫の成虫というのは必ずしもその生物の完成型といっていいものだろうか。土の中で過す幼生期の姿こそが、この昆虫たちの本質であって、成虫は生殖活動のためだけの特殊形態だとしたって、決しておかしなことではないだろう。そうだとすれば、土の中とはいえ本質である幼生期の期間の長さを考えれば、1年以内の一生しかないことなどザラにある昆虫の中にあっては、むしろその命は長い方というべきである。

しかしである、ふだんはそうやってドライに即物的に考えているのだが、夕暮れに小さなすり鉢をじっと見ていたら、少し違う思いに陥った。

この新しく出現したアリジゴクの小さなすり鉢は、6月に巣立ったウスバカゲロウが直後に生殖活動をした結果なのであろうか。仮にそうだとしたら、ちょっとうれしくなりはしたが、その一面で生命の無常のようなものを感じたのである。

アリジゴクの活動は本当に辛抱強くエサとなる小虫の落下を待つばかりの受動的な生き方である。それをほとんど一生かけて継続し、最終的にはほんのひと時だけ子孫の存続のために成虫となって生殖する。そして子孫は再び親とまったく同じように、その一生を辛抱強い地中生活で過ごすわけである。さらにその繰り返しが何百何千世代と続いてゆく。

この生き物が生命活動を持っていることに、果たしてどんな意味があるのだろうか。いや、地球では最も高等な活動を成し得る生物であるはずの人間だって、その点、たいした変わりはない。違うとすれば、プラスアルファとして、子孫に対し、記録と造作という身体以外のものごとを伝え残す術を種々持っていることくらいである。それが大きな違いだといえば大きいともいえるが、例えば宇宙全体としてというような、より大きな意味を考えたら、それがいかほどの価値を持つものなのだろうか。

そうはいったところで、私は生命に悲観しているわけではない、果たして生命という不思議なものは、どのような意味を持つものか、なにか目的というものがあって存在しているのではなかろうか、それとも、偶然発生してしまい漫然とそこに存在して、環境の影響を受けてたまたま変化(進化)しているだけなのだろうか、不思議がより一層不思議に感じられる思いに陥ったというまでのことである。

アリジゴクの新しく小さなすり鉢の数を数えてみると15ほどはあるようだ。これらの子アリジゴクがウスバカゲロウとして巣立ってゆく日までまた見守ってみようと思う。

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カブトムシの角

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~デザインされたかたち~

山の朝、霧の空気に肺が洗われるように思われた。霧の森、天井から朝の光が条となって差し込んでくるのを見上げながら木々の間を歩いていると、一匹のカブト虫に出会った。

ずっと、見慣れてきた形であるからという理由だけなのか、それはよくわからないが、日本のカブトムシの角は、とりわけ均整のとれたものであるように感じられる。

そんなことを思いながら、カブトムシの角をまじまじと見てみる。大きな角は、頭部からすっとまっすぐに伸び、先のほうで2つに分岐し、分岐した先端で更にそれぞれ分岐する。
そして、小さな角が胸部からせりあがるように持ちあがって、これも先端で2つに分岐し、大小の角は、それぞれ互いの方へ向かって反るような形状で、ものを挟み込むこともできる。

これはどのような志向でデザインされたものであるのだろうか、または、どのような必然性があって進化とともに形作られたのだろうか

この形が美しいのかどうかはともかくとして、このような形状を作りだす生命には不思議を感じざるを得ないが、そこには、他の生物のデザイン一般ともどこか共通した、成形における一定の秩序が隠されているように思えてならない。

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ウスバカゲロウ

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~極楽蜻蛉が飛び立つとき~

雨季の湿った空気にまだもうしばらくは付き合わなければならない6月末ころ、宵に帰宅して玄関に入ろうかというとき、忘れかけていたものを思い出させるかのように、ハラリハラリと、目の前を頼りなくウスバカゲロウが飛ぶのを毎年のように見かける。

玄関脇の軒下に砂を撒いてアリジゴクの育成環境を作ってあるので、ウスバカゲロウが羽化すると、すぐ近くにある玄関の外灯周りに引き寄せられてくるようである。

玄関先の外灯というのはそれほど明るいものではないから、その弱い明かりの中でゆらゆらと揺れながら飛ぶ影は、ともすれば視界の隅を幻影が通り過ぎたくらいにしか感じず、通り過ぎてしまいがちであるが、ふと、後から思い出したように振り返りって存在に気付くことが少なくない。極楽トンボという別名もうなずけなくはない気がする。

ウスバカゲロウの飛び方は、見方によってはハラハラと優雅にも見えるし、ヘラヘラとかナヨナヨとか頼りなく儚げにも見える。この昆虫は、以前アリジゴクの項にも書いたように、同じ「かげろう」の名が付き主に川を中心に棲息するカゲロウ類(幼虫が水生)とは、あまり関係がないのであはあるが、おそらく古来より、この手の形、この手のゆらゆらした飛び方の昆虫は、総じて「かげろう」と呼ばれるのだと、そう考えるほかないだろう。

ウスバカゲロウは、幼虫→蛹→成虫と完全変態をする昆虫で、昆虫として本格派である。成虫で生きていられる期間は2週から3週くらいでセミと同じくらいだろうか、この成虫の期間が短いのは、昆虫としてさほど珍しいことではない。昆虫の成虫というものは概して生殖のために特化した姿といっても過言ではないかもしれない。

ともあれ、真夏がまた一つ近付いた気がする。

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ジョウカイボン

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~林道脇の草に平清盛がしがみつく?~

なんともほのぼのした名前の昆虫である。普通に見かける昆虫であるとはいえ、あまり世間に知れた昆虫ではないのだが、昆虫の名前によくありがちな「○○モドキ」とか「ニセ○○」といった、二次的である上に偽者よばわりされているみたいな名前ではなく、また、他の動植物でも広く使われている一般名詞等に「トリ」や「ウオ」や「クサ」などをくっつけた名前「○○ムシ」でもない、りっぱな固有名詞が与えられている。

ジョウカイボンは、見てのとおり、一見カミキリムシタイプの細身の甲虫であるが、他の昆虫を捕食する昆虫であるということで、完全な植物食であるカミキリムシの仲間とは明らかに違う。近縁ということでは、ホタルに近い仲間であるとされるが、それこそ完全な肉食のホタルとも違い、植物性のモノをまったく食さないわけでもない。

林道脇にも、家屋周辺の野原にも、わりと普通に見られ、甲虫の割にはよく飛び回る。特によくみかけるところというのは、葉の上や花の上であり、何をしているかというと、こうしたところにやってくる他の昆虫を捕獲するために待ち伏せているのである。

ところが、待ち伏せしているだけかと思いきや、そのまま花の花粉を食してしまうこともあり、これを雑食といっていいのか、肉食又は草食のどちらかから、他の一方へ移行しつつある種といっていいのかも分からないが、なんにせよ、あまりぱっとしない昆虫という印象はぬぐえず、それが知名度の低さにも現われているのだろう。

「ジョウカイボン」とはなにかというと、漢字で書くと「浄海坊」になるようで、これは平清盛の法名でもあるらしく、平清盛が熱病で転げまわって死んだということと何とか繋げて、名前の由来が説明されているのをいくつか見るが、どれをとっても、なるほどとうならせるものは見当たらない。

近縁種のホタルに平家と源氏があることとも、多少は関係あるのだろうかという気も起きるが、もともと和名にゲンジやヘイケは付き物だから、まったく関係ない気もしてくるし、結局、名前の由来はよく分からない(諸説は検索ででも探してみてください。もし、おお!っというのがあったら教えてくださいね。)。

昨日走った林道でも、路面脇の草にしがみついているジョウカイボンに出会ったが、名前の由来はともかく、林道で昆虫の観察をしている身には、とても馴染み深くて、かわいらしい昆虫である。

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