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つめたい雨2

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冷たい雨が降っている。あまりに冷たい雨
あと一歩で雪なのに、ほんのちょっと上空で水に融解してしまったばかりの水滴。

今日は、関東各地でもみぞれや雪になったようだが、相変わらず我が家の周りは雨がザブザブ降っている。気圧配置として微妙に雪が降りそうな感じがあるが、そこは、そのときのほんの少しの温度の差で決まってしまう。

南関東で雨の降る日、雪の降る日は、決してその冬で特に気温の低い日ではない。だから、ぎりぎり雨か雪かという状態。よほど運良く寒気の十分入った後でないと雪がふるという予報は難しい。ただの温度予報に過ぎないのだから。

雨か雪かの境界は、地表上の温度だけではなく、上空の気温も大きな条件だし、微妙なときは実際に降ってみないとわからない。

少しずつ気温が下がって、雪に変わってくれないものだろうか…

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イルミネーション

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~幻影的なイルミネーション・フィギアを入手した~

歳末となり、街はイルミネーションで溢れてきた。巨大テーマパークから商店街、そして路地裏の新興住宅地まで、冬空の下、夜の街に出れば、キラキラと吸い寄せられそうな光の粒子が様々な色の光を放ち、あるものは不規則に、あるものは整然と形を作り、本来なら心細さを誘う冬の夜を彩っている。

イルミネーションという、人の心の何かを感動させる仕掛けがつくられたのは、16世紀のドイツとも言われるが(マルティン・ルターの考案というのが多数説)、もっと古い時期にも木々に火を灯すような習慣もあったようで、いずれにしても、現在の電飾モノ以前から、あのようなチラチラと瞬くような小さな明かりに、人は心引かれてきたということと思われる。

人の心を引くというものには、自然の中に何らかのその幻影の元があると考えるのが通例だが、それを求めれば、やはりそれは夜空に煌く星々の模倣ということなのだろうか。よもやホタルイカの発光を見て感動して・・・ということではあるまい(星よりイルミネーションにより近い気はするが、それを目にして心に焼き付けるのは、ほんの限られた方々だけである)。
星の瞬きには、生命の根源に繋がるような想いを抱かせる何かがあり、太古の昔から人々の憧れがあると思う。

※何度かこのblogでも話題にした、海洋堂の生物フィギアがコンビニの商品棚に並んでいるのを見かけた。それもミジンコのフィギアではないか。それが、イルミネーションで飾られた姿を想像するまでもなく、買い物カゴに直行させた。

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金星の落とす影

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~月と金星~

林道の広場で、いつもより、ひときわ静寂に包まれた車の寝台で目を覚ます。まだ東の空に薄明が訪れるのには時間があるようだった。人工の光はなにひとつなく、月明かりもない深い暗闇と思っていたが、案外、視界が効いていた。一晩、暗闇で寝ているうちに、目の感度が研ぎ澄まされたか、微小な光も見逃さない。

すこし冷えた体を気遣いながらも、車を降りて外に出た。
視界が効く理由がわかった。思いもかけないような強い光の点が、宙の斜めから射るような光芒を投げかけていた。
まだ、目の焦点はうまく合っていないのか、それは幾重にも重なって目に焼きつく。

明けの明星が落とす影を見たことがあるだろうか。
現在のような光溢れる環境では、そうは見ることが出来ない。

※今年は6月8日に金星が太陽面を通過したが、今回の話は、そのような太陽を背景にしたシルエットのことではない。いや、その太陽面通過というのは、まさに世紀の天体ショーではあるのだが・・・

金星は、全天でも太陽と月に次いで明るくなる天体である。
地球より内側で太陽をまわっている惑星(内惑星という)である金星は、それゆえに普通は日没後の西の空か、日の出前の東の空でしかお目にかかれないが、最も明るくなるときには、青空の中にも探し出すことが出来るほどになる。

内惑星であるので、太陽と地球の間に来るとき(内合という)は、最も近づいて、見た目の大きさ(視角という)は最大となるが、新月のように影全面をこちらに向けている。逆に、太陽の反対側に行ったとき(外合という)は、満月のようにまん丸でも、最も遠くて視角が小さい。見た目で、太陽からもっとも離れたとき(角度で47°くらい)は半月のような形で、視角はほどほどとなる。
このように満ち欠けする金星が最も一番明るく見えるのは、光が当たって明るい部分の見た目の面積最も広いときであり、それは、半月状態より新月状態に近く、新月状態の前後35日くらいの五日月のような形のときである。

一番明るくなるときを最大光度といい、マイナス4.7等級の明るさであるので、まだ薄明かりのない空にあっては、まばゆいばかりの明るさで、その光は影をも落とすとは、よく言われるので聞いたことがあるかもしれない。けれど、なかなか実際にその影を目にすることはできず、それを見たのは、もう何年もなく久しいことだった。

月の影のようにくっきりとしたものではない。なんとなく目をそらすと見える程度でのものではある。
けれども、星が落とす影などとは、やはり、やや非日常的なものには違いない。これを目にしたとき、何ともいえず幸運が訪れそうな予感すら覚えた山中の朝だった。

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開設1周年にあたり

041212ys林道百拾号線も丁度開設1周年となります。

正体がよく分からずにはじめたblogですが、1年経ってみて、使い勝手、そのメディア特性、最も重要なのは自分の表現したい興味ある世界観。そういったものを自分なりに踏まえて、徐々にここ特有の特徴をもたせた形の記事を作成していった結果、現在のように「自然観察をメインとしたエッセイ」のようなモノに、スタイルが落ち着きました。

やはり、blogには限界があります。当初、自己の限界を思いやりはしましたが、そういうことではありませんでした。このblogは、かなり限定されたレイアウトの中で、同じスタイルで蓄積してゆくことに意義のあるコンテンツには向きますが、「最新情報」というタイムリー性、リアルタイムの必要性の意識に乏しい、いや、興味の薄い私には、自身が求めるものとして現状の形がもっとも生かした使い方と考えます。
ここで、ツーリングレポなど作っても、全く面白いものは作れる気はしませんし、その日走った林道を撮影して投稿したところで、誰も読まないし自分も読まない。何人かのライターで共同作成すればまだ可能性はありますが、それも、雑多なネタの集まりに過ぎないものになる懸念が大でしょう。

そうはいっても、このblogというもの、別な意味で非常に意義はありました。かなり頻繁なUPを繰り返すことの継続を、いったいどこまで続けられるか、いまひとつ自分でも見えませんが、メインサイトの閲覧者層とは少々趣を異にする方々から、1コンテンツとしてのこのサイトを評価した意見を頂いている側面も無視できません。また、筆・・・いや、ここへのUPテキストを楽しく書き綴る「とき」というのもまた自分にとって非常に重要かつ有意義なものと感じます。

月に数回のUPにまで減少することも十分予測されますが、少なくとも、今しばらくは、このまま、現状維持を努力してみるつもりです。

04.12.12開設1年を迎えて・・・代官

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つめたい雨

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つめたい雨~心傷

降る雨が次第に冷たくなってきた。北国では、とっくに雪の便りが聞こえている。行きなれた関東周辺の林道が雪に閉ざされる日も近い。
それでも、今年の冬の便りは例年になく異常に遅い。

「つめたい雨」。
歌の題名や歌詞にも良く使われる慣用語だが、文字どおりの「温度の低い雨」の意味以外に、雨の生成に関する用語の一つで、ちょっと聞き慣れないかもしれないが、「つめたい雨」というのがある。

雨滴のでき方など、普段はなにげなく暖かい空気と冷たい空気がぶつかって…程度しか考えていないけれども(それだけでは雲は出来ても雨は降らない)、真面目にその過程を説明しようとすると、案外ややこしい。

ややこしいので、その話は後回しだ。
この時期になると雨が降るか雪が降るかは、いまだに私の冬の関心事だ。なにも、科学的にどうこういうのではない。ただ、子供のように雪が見たいだけだ。
雪国の方には想像もつかないだろうが、自宅にいたのでは、年に雪が降るのを見るだけでも片手で数えられるくらいしかない。積るなんていうと1回か2回である。

冬特有の西高東低の気圧配置では、まあ、絶対に雪は降らない。仮にそれでも降るとすれば、猛烈に強力な西高東低型のとき夕方に脊髄山脈からこぼれでた雪雲が通り過ぎるときに、チラチラ程度なのである。温暖な千葉に雪が本格的に降るのは、厳冬の寒さゆえではなく、南海上の特定の緯度を低気圧が通り過ぎるときに、雪か雨かの微妙な状態に限られる。だから、決して冬で最も寒いようなときに降るのではなく、からからの晴天の朝よりずっと温度は高い。

そんなわけで、わが郷土では、冬に降水があるとき、心待ちにしている雪にはなかなかならず、決まったように「つめたい雨」が降る。今日も、関東はしっとり雨模様。けれど雪など降る様子は微塵もない。つめたい雨は、どう見ても寂しい。

~雨の生成、降雨に関する「つめたい雨」のこと~

雨を降らす元である雲は、ごく小さな水滴でできていることは、みなさんご承知のとおりであるが。この水滴は、あまりに微小であって、これを衝突により普通に集めて雨滴の大きさにするには、とてつもない数量を要するし、衝突の頻度は著しく低いので、単に雲粒の偶然の衝突により成長すると説明するのは無理がある。

雨滴のでき方は、大きく分けて二通りある。
ひとつは、上昇した湿度ある空気がその高度ゆえの低温で、0℃以下の状態となり、そこに存在する雲粒から形成が始まる。雲粒のごとく微小な水滴は、0℃以下の過冷却の状態でも存在することができ、雲粒のこの状態を「過冷却」と言うが、これが一気に昇華して氷晶を形成する(そのためには核となる物体が必要となるが、それをどこから得てくるのかはかなり理解困難であるのだが。)。この氷晶さえできれば、あっという間に雨粒の元となる大きな氷結晶が成長する。
こうして出来て降る雨を「氷晶過程に始まる降雨」別名で「つめたい雨」という。日本で降る多くの雨はこのつめたい雨になる。

もう一つは熱帯から中緯度地方までにみられる。「あたたかい雨」。これは、著しく強い上昇気流があると、その中に、なんらかの原因で出来たやや大きな雲粒を元に、通常より衝突頻度の高い雨粒形成をもたらすというものだが、これまた、なんらかの原因でという不明瞭な部分がある。

こんな風にややこしい。あまり単純な説明が出来ないことは自然界には多くある。ほんとうは、きっと、その原理はかなり単純な場合が多いのではないかと思うが、それを完全に解き明かすまで、謎のベールに包まれてしまう。
たかだか、雨がどう降るかも簡単には説明できない。

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かげろう

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~儚い命の象徴~

「かげろう」とは、つかみ所なく揺らいでいて儚いものをイメージする言葉である。
普通に「かげろう」といったなら、「陽炎」のことを指すのが一般的だろう。けれども「かげろう」といわれるものはそればかりではない。
「陽炎」のほかに「糸遊」そして「蜻蛉」又は「蜉蝣」のおおむね3つの「かげろう」がある。

「陽炎」は、空気などの密度の違いで生じるもので、光と影が織り成す、たゆたう光学現象である。夏の路面や屋根の上、煙突やエンジンや焚き火などの熱の周り、水槽の中のヒーターの周りなど、だれでも比較的よく目にするあの揺らぎのことである。

「糸遊(いとゆう)」は「遊糸(ゆうし)」とも言われ、「雪迎え」「雪送り」さらに「かげろい」などともいわれる。これは「雪迎え」の記事に書いたが、蜘蛛の子が広範囲に生息域を広げるべく、尻から出した糸を風に乗せて飛んでゆく生態を指す。

もうひとつ、「蜻蛉」はトンボの古名でヒラヒラと飛ぶ様と陽炎をダブらせたものだろうか。儚いものの象徴として古文によく用いられてきた。また「蜉蝣(ふゆう)」は、「カゲロウ」という昆虫のこと。トンボとやや混乱するが、カゲロウ目の水生昆虫で、カワゲラやトビケラなどと同様に清流に棲息し、1~3年程度の幼虫期を経て、成虫の期間が1日ほど、種によっては数時間という、いかにも儚いものに例えられる生き物である。渓流釣りに通じた方には、馴染みの深い昆虫と思う。

どの「かげろう」をとってみても、やはり、ゆらゆらとして儚げである。

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NewTypeへの進化の態様

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~変わるべきとき、進化は羽化のごとく進むのか~

生物には多種多様に拡散、進化した種というものがある。
生物の進化というのは、この種に変異が起きる、種が変わる、分化するなどということであるが、種が変わっていくというときには、一体どんな風に、どういう変わり方が起きるだろうか。

まず、進化の態様について想定するときに考えるべきことは、進化のシステムだろう。次いで、その結果としての進化による変異は急進的か漸進的に現れるかということになってゆく。そして、最終的に、具体的には目に見える形としてどのように進化がはじまるかということ。

進化のシステムについては、広く一般には、既に決着の着いた問題のように思われているところもあるが、現実にはそのようなことはなく、まったく諸説入り乱れていて、結論を見るには程遠いと言わざるを得ない。
私なりに支持する進化論もあるのだが、今回ここでは言及しないこととする。
更に、変異が急進的か漸進的かということも、進化のシステムに大きく左右されるわけだが、これも、しばらく言及しない。

さて、いきなり本来話の根底となるベき部分を飛び越すのもどうかとは思うけれども、空想の遊びとしてでもいいので、この進化というものは、それが起きるとき具体的にどう発現するのかを想像したい。

昔から言われる「ニワトリが先かタマゴが先か」という問いかけ。その問いの解答だけなら、私はさほどの問題ではないように感じていた。
タマゴが先ではないと考える理屈が解らなかった。

ニワトリAとニワトリAが生んだタマゴは個体が違う。しかし、そのタマゴとそこから生まれるニワトリBは同一の個体であり、同一の世代である。
そのタマゴはニワトリBと同一であるのだから、進化のときには「プレ・ニワトリ種」のAが「ニワトリ」であるBを生んだというのが正解で、タマゴとして生み落されたとき、既にそれはニワトリだったことに何か疑いがあるのだろうかと考えていたからである。

一個体が同一の世代中に個体変革を起こして別の種となるモデル(後天的進化)は、常識的には少し考えづらい。ごく普通には世代の変わる時に種が変わる(先天的進化)のではないだろうか。

そうだとすると、進化のときには、親から、その親とは違う種の子供が生まれてくるということになる。まあ、それも、進化が連続漸進的でなく、断続急進的であるとした場合の話ではあるが・・・

人間の場合で考えてみると、あるとき、それまで見られなかった特長をもつNewTypeの人間が突然現れる。ところが、それは単発的ではなく、世界各国において散発的に、しかし、確実にあちこちで次々とNewTypeが生まれる。
その世界新記録が生まれるまでは、信じられなかったような記録が、一度出ると当たり前に出始めるように・・・
そんな、突発的な断続急進的進化が私には一番自然に受け入れられるような気がする。


今回の話はまったくの机上想定です。
何の実証もなく、私の感覚のみで話している部分ばかりを多く含みますので、その点、承知の上でのみお読みください。

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雪迎え

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~蜘蛛と風…~

晩秋・・・初夏にもたぶんあると思う。あまり知られてはいないが、透けるような糸が風に乗って舞う「雪迎え」という現象がある。
たしか、主に山形方面で使われることばと聞いているが、「雪送り」ともいわれる。これが見られる時期、雪が降る前ぶれや後の風に乗って現れることから、そう呼ばれるらしい。

この現象は、英語でも「ゴサマー」(gossamer=goose summer=ガチョウの夏)と呼ばれ、「エンジェル・ヘアー」というもっとロマンある言葉もある。

この「雪迎え」という幻想的な想像を掻き立てられる現象、実は、生まれて間もない幼蜘蛛の繁殖方法であり、小さな蜘蛛が長い糸を出して風に乗り、これをなびかせて繁殖地を広げてゆく生態である。
誰もが知っているタンポポの種のように、蜘蛛が広い範囲にその生息域を広げてゆく手段として、風というものを利用しているのである。

他にも呼び名があり、「遊糸(ゆうし)」というのは中国語源であり、”かげろう”ともいう(「かげろう」については、次の機会にでも話したい)。
また、伊豆地方で「白ばんば」といえば、井上靖の「しろばんば」※が有名で、一義には雪虫(トドノオオワタムシというアブラムシ科の昆虫のこと)を指すようだが、この蜘蛛の糸のことも「白ばんば」というらしい。

かなり多くの種類のクモにこの生態があるようには聞いているが、実際には滅多に見られるものではない。日中の小春日和から、夕方に風が吹き始めるような11~12月ごろにそのチャンスがあるようだが、今年、まだ一度もその光景を目にすることはなかった。現象の実体だけ捉えれば他愛ないことではあるかもしれないけれど、なんとも夢多い現象であり、心引かれる名前ではないだろうか。

※文学に詳しくない私には、それが雪虫のことか、蜘蛛の糸のことかわからない。

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師走の南風

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~スズメも軒下で暴風をやり過ごす~

今朝の天候はまれに見る荒天であった。
12月というのに、台風そのものともいえる南向きの暴風が吹き荒れ、まさに落葉のシーズンを迎えた周辺の木々の葉を、まるで吹雪のように撒き散らして去っていった。

この暴風を呼んだ低気圧は、すこし前まで、台風27号としてフィリピン方面で暴れていたものが、崩れて温帯低気圧になったものであるが、勢力がいったん弱まって熱帯性低気圧の特徴を失ったまではよかったが、温暖・寒冷前線を伴った温帯低気圧に変わってから、もう一つの温帯低気圧と一体になって、あらためて勢力を立て直したと思われる。
これから東海上に抜けてからも、更に発達を続けるかもしれない。

今朝、あまりに激しく家を揺らす風の音に目覚めて、手元の時計の気圧計に目をやると、なんと980hpaを切っている。標高にして50m程度の平地にある我が家では、台風直撃時でも、そのような低い気圧はなかなか目にしない数値であるので、気圧計の針を見て目が一気に覚めた。

そうこうしているうちに、長い時間に渡る停電となる。これだけの風である。電線施設の被害もでたかもしれない。野外の様子を見てみると、文頭に書いたように、まさしく落ち葉の吹雪だった。

ためしに、こういう季節はずれの台風のごとき暴風に、なにか名前がないか調べてみたのだが、ちょっと見当たらない。さすがに、例年稀にみるものだったようだ。

隣の家の屋根裏に住むスズメの夫婦が、迷惑そうに風に羽毛を膨らませながら、軒下で採餌のときを待っていた。

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地球ゴマ

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~いまだに現役だったとは~

地球ゴマを買った。何か漠然としていてはっきり言葉にできないが、それはとてつもなく甘美な想いをとどめていたような気がする。

地球ゴマをご存知だろうか。コマと言えばコマには違いないが、あれは、いわゆるジャイロというものだ。
金属リング2本を直行させて形づくった球形の空間内部に、上下軸が等長な金属円盤のコマを押し込めたもので、「遠心力応用科学教育玩具」との触れ込みで、駄菓子屋における高級玩具だった。
よく記憶していないのだが、当時の値段では200~300円だったのだろうか。

ジャイロだから、ひとたび内部のコマに高速回転を与えてやると、たちまちに全宇宙に対して姿勢維持の力を発揮する。
軸を直立させて廻るコマならわかるが、重力に抗して指先から軸を真横倒しで姿勢維持している姿は、子供の目には、理解を越え、現象をただ恍惚として見つめ、受入れるほかなかった。

私の机の引きだしの奥に宝箱がしまいこんである。その中に、私が幼い頃に大切にしていた地球ゴマは、ひっそりと眠っていた。
半透明材質でできた、立方体の専用ケースから、コマを取り出して糸を勢いよく引いてみる。
ヒューンと心地よく唸って、久しく休眠していたジャイロが始動した。少し古ぼけてはいるが、心引きつけられるその動作は、当時と何も変わらない。
暫くの間、繰り返して糸を引き続けたあと、満たされた気持ちと一緒に、再びコマを専用ケースへ戻してしまい込んだ。
※この専用ケースなどに回転したコマを入れて蓋を閉じると、立方体の角を下にして床に置いても、そのまま一点支持で立ってしまう。

つい先日、何を思ったのか、娘が唐突に、地球ゴマが欲しいと言っているのを聞いた。なぜ、その存在が意識にのぼったのだろうか、無性に気になったのだが、それとともに、地球ゴマそのものがもつ不可思議な魅力の記憶が急に蘇り、長年しまってあった宝箱から取りだした次第だ。

その後、ネット上を少し探ってみた。
すると、何とも驚いたことに、あの地球ゴマは同一のメー力ーが今だに製造を続け、ちゃんと販売されている現役商品だった。しかも、A~Eという大きさの違う5種の堂々たるラインナップをいまだに揃えている。

私が、何ためらうことなく、購入ボタンを押してしまったことは言うまでもない。もちろん、宛名には娘の名を書いた。

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