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夏の終わりに

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~秋の虫達の季節がやってきた(ヤブキリ)~

夏が終わりを迎えようとしている。
涼しくなるので、うれしいと感じる方の方が多いだろうか。夏が好きな私にとっては、ちょっと寂しくなる季節であるのだが・・・

特別、何が寂しいというのではない。この時期になれば、夜はコオロギなどを中心とする秋の虫が、いかにも涼しげな鳴き声を立て始め、耳を傾ける時間があれば、それはそれでとても風流であるはずなのだが、近頃は、何か心に落とされた影を感じるのである。年周期の生命活動がピークを過ぎて下降線を辿り始めることを感じるからであろうか。

それにしても、子供の時分に比べたら、音や映像、そして空調にパソコンと、電気に溢れた生活に埋もれてしまっている。
布団で横になり、何もない暗い部屋で、ただ、マツムシやカンタン、そして、スズムシにウマオイと、種類豊かな庭で鳴く虫達の声を聞きながら、いつしか眠りに落ちてゆくようなことは、もうなくなってしまった。

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エゾゼミの声を聞き分ける(3)

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~エゾゼミのアルビノみたいなアカエゾゼミ~

「エゾゼミ類3種の鳴き声判定法開発」という新聞記事に興味をもち、もちろんすぐに目を通してみた。開発したのは独立行政法人森林総合研究所東北支所の研究官であるという。

なるほど、記事によれば、エゾゼミ・アカエゾゼミ・コエゾゼミの鳴き声について、パルス数と平均周波数で分析したようだ。数値はそれぞれ、エゾゼミ45回/秒・約5400Hz、アカエゾゼミ75回/秒・約4900Hz、コエゾゼミ100回/秒・約6200Hzとのこと。録音してきた声をこれに照合すると3種がうまく判定できるということだ。
(詳しくはこちら参照)

人の耳でも一段高い音と聞えるコエゾゼミの声は、やはり、周波数が、ちょっと高いのだなぁということは分かった。ただ、パルスの数というものが、人の耳にどういう効果で聞えて来るのかはよく分からない。
それでも、具体的数値がある程度確定できたことで、少なくとも機械的には、判別ができるというわけだ。

これまで、書いてきたほかに、エゾゼミの仲間の標高と樹種での棲み分けというものがある。
標高の低いところから順に、まずエゾゼミがマツやスギに、次いでアカエゾゼミが広葉樹林に、そしてコエゾゼミはブナ・シラカバにという具合である。

これは、山にどんどん登っていくような林道を走ると体験できる。アカエゾゼミは、少々、生息地が限られているようで、ちょっと別だが、例えば、少し前に走った長野県の入笠山に登る金沢林道。ここで林道入口の標高500mあたりでは、エゾゼミがけたたましく鳴いていた。しかし、標高が上がるにつれて、徐々に聞えなくなり、しばらく、セミの声なしの区間があった後、山頂近いあたりのシラカバ林になると、コエゾゼミが鳴きだすといった具合である。

まもなく、これらのセミの季節も終わりに近いが、今回は、こんな細かな話題でも、そこには一歩踏み込んだ世界があって、これを研究していたりする方もいるものだと感心した次第であった。(おわり)

エゾゼミの声を聞き分ける(1)
エゾゼミの声を聞き分ける(2)

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エゾゼミの声を聞き分ける(2)

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~朝は低位置で休憩するコエゾゼミ~

エゾゼミの仲間は、概して木の高い位置で細枝にとまっていることが多い。非常にたくさんの個体が鳴いているところでも、声は聞こえど姿はあまり目に付かない。
ついでに言うと、木にとまるとき、頭を下に向けて逆さまの姿勢で鳴くことが多いのも、エゾゼミの仲間の特徴である。
しかし、まあ、それはともかくとして、前回、姿の相違は書いたものの、その姿自体があまり見れないのであれば、鳴き声ばかりは聞こえても、何ゼミだか分からないということになってしまう。

では、そのエゾゼミの仲間たちの鳴き声なのだが、まあこれは、同時に聞き比べれば分かるけれど、それぞれ別々に聞いたのでは、正直、耳が慣れないと難しい。
どのセミも特筆するようないい声で鳴くわけではない。
「ギョー」とも「ギー」とも「ジー」とも聞こえるもので、アブラゼミより湿って連続した声である。

よくよく聞くと、まず、コエゾゼミの声は、他の2種と比べて少し音程が高い。つまり周波数が高い。対して、エゾゼミとアカエゾゼミは、周波数が低いわけだが、2種に周波数の違いはほとんど感じない。ただし、エゾゼミのほうは、メインの声のほかに、何か耳の奥が共鳴するような低い音の響きを伴う。
まあ、音を文章で表すのは難しいが、鳴き声をデジタルのレコーダーで収録し、これを音量/周波数のグラフで表示させると、コエゾゼミとアカエゾゼミの声は周波数のピーク1つの大きな山型を描くが、エゾゼミでは、大きな山のほかに、もっと周波数の低いところに、もう一つ小さな山が現れる。

こうは書いたが、こうやって文章で表しても、やはりピンとこないだろうとは思う。まずは、実物と肉声を山で聞いてもらえれば、それが一番いい。

この夏、信州や北海道で、たくさんのエゾゼミ属の声を聴いたので、エゾゼミの声について、少々考えていたところに、数日前、「エゾゼミ類3種鳴き声判定法開発」という興味ある新聞記事を見た。(つづく)

エゾゼミの声を聞き分ける(1)
エゾゼミの声を聞き分ける(3)

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エゾゼミの声を聞き分ける(1)

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~エゾゼミ~

夏の林道といえば、エゾゼミやその仲間のセミたちの声がつきものである。道すがらに車を降りると、時にしばらく耳鳴りが残るほどにエゾゼミの声が降り注ぐ。

このセミたちは、北海道などでは平地でも鳴いているが、私の主な活動域の関東甲信越や南東北では、少々山に入らないと出会うことはできない。
もっとも、甲信地方などは、そもそも全県的に標高が高いところが多いので、地元の方には最も身近なセミである場合も多いだろう。
また、逆に山のない千葉県、正確に言えば県内最高地点でも408mしかない私の地元では、お目にかかることはちょっとない。確かな資料を調べたこともないので、うかつなことは言えないが、おそらく生息していないと認識している。

エゾゼミの仲間は、東日本においては、エゾゼミ、アカエゾゼミ、コエゾゼミの3種が知られている。
見た目の区別なら、それぞれ大きな特徴があって、さほど難しくはない。

まず、大きさは、エゾゼミ、アカエゾゼミが大きく、各地でもっとも普通に見るあのアブラゼミより一回り大きく、よりスマートに長い。コエゾゼミは同じくアブラゼミと比べると一回り小さい。

次に体色や模様を見るとエゾゼミを基本とすれば、アカエゾゼミは、体色の黒以外の部分がみな明らかなオレンジっぽい色を呈している。また、コエゾゼミは、一見よく似ているが、最大の相違点として、頭部と胸部の境目の黄色いラインが、左右で黒く寸断されていることがあげられる。

しかし、エゾゼミの仲間は、声は大きくてよく聞くものの姿は見ることが少ないのが普通である。そこでエゾゼミの声について触れなければならない。(つづく)

エゾゼミの声を聞き分ける(2)
エゾゼミの声を聞き分ける(3)

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羊蹄山

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~蝦夷富士の名に相応しい山容~

後志羊蹄山は、北海道でも最も好きな山の一つである。
富士の別名をもつ各地の名山の中でも、特に均整が取れていると思うこの蝦夷富士の山体は、本当に素晴らしいものだと思う。

形を見れば一目瞭然、コニーデ型の火山であるが、既にその活動は休止して久しいようで、死火山とされている。
山名は、元々後志羊蹄山=シリベシヤマと読むが、いつの間にやら略されて羊蹄山=ヨウテイサンと呼ばれるのが普通になってしまっている。「シリベシ」は「山沿に下る」という意味のアイヌ語らしいが、アイヌ語では、この山を「シリベシ」呼んでいるわけではなく、「マッカリヌプリ」というようである。

羊蹄山山麓には何回も来ているが、随分前にもう1月ほど遅く訪れたとき、私の地元である九十九里の道路に、搬送こぼれの鰯や秋刀魚が落ちているのと同じように、トラックからこぼれ落ちたジャガイモが、コロコロと道路に転がっていた。

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ビオトープ

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~移入した水草に上陸する~

家の目の前にある池に、ちょっと広めの放水施設がある。
この放水施設は、池から放水されて下流へ流れる水を、二次的にストックし調整するための小さなダム状のものである。もともとは、全面コンクリートであったのだが、いまや、そこにたまる水とその周辺に、程よく水草や水辺の草が生え、貝類や小魚なども住みついて、ちょっとしたビオトープになってしまった。
それこそ、我が家がこの地に移り住んできた頃は、白いコンクリートだけの乾いた施設であったのに、時の流れとは早いものだ、もう15年以上の月日が流れている。

ところで、近時、各所でビオトープ作りが盛んであるようである。自宅の庭の片隅に作るささやかな大きさのものから、休耕田などを利用した大きなものまで様々であるが、いずれも、個人や管理する団体の想定する自然環境に模されて、豊かな生物環境を形成しているようだ。
このビオトープという言葉は、もともとバイオ=生き物、トープ=場所ということで、「生物群の繁殖環境」みたいな感じの意味であるが、現在においては、通常、「人の手による自然復元環境」というような感じに使われている。

この生物群の繁殖環境を創出するにおいて、自然のままに放置することも1つの方法であるのだが、そこに積極的に人が関わって、生物的に多様性のある環境へ導いていこうとするのが、ビオトープの考え方である。

しかし、このビオトープというものは、本来的な意味合いや、環境保全の観点からみると、必ずしも理想的環境ではないことが通例であり、自然環境、生態について純粋に取り組む方々にとっては、ビオトープというものは、歓迎されるものでもないのである。

それは、そのビオトープをプランするとき、プランナーの意思としては、より「豊かな自然」というものを意識しているのだとは思うが、それがいつしか、より「自然っぽく見栄えするもの」になってしまい、見た目によって、気に入った花を付ける植物を優先し、いかにも、ただの雑草らしいものは抜き取ってしまったりという園芸的なものになりかねないからである。また、水には熱帯産で花の綺麗なスイレンとかホテイアオイのような、本来は、その地になかった外来帰化種を浮かべたりといった具合に、結局出来上がるものがその地にあった環境ではなく、「独自にイメージした世界の擬似自然」となる傾向も低くないように思える。

さて、冒頭に書いた、我が家の近所の放水施設に成り立ったビオトープの話だが、実は、そこに繁茂した水草は、10年以上前に、私が近くの他の小川から採取して、それを、室内の水槽で小魚とともに飼育していたのだが、これをときおり剪定するときに、捨てて枯らしてしまうのも、少々かわいそうな気がして、その放水施設に植えた小枝が、その後にすっかり根付いてしまったものなのである。
まったく、違う地方の水草ではないが、本来そこになかった植物が繁殖したことになるわけであるし、目には見えずとも、おそらくは水草に付いていた微小な生物にまで目を向ければ、同様の事態になっていることが想像できる。

大げさに聞こえるかもしれないが、自然を維持しながら、人為で生態に手を加えることは、相当な慎重さが求められるということを強く感じた。
また、人が積極的に関わって創る自然環境の限界というものがある。いったん壊れた自然を取り戻す際も、その作業を人為で行う以上は同様であって、本当に元の姿を取り戻すということには、相当の困難があるだろう。だからこそ、壊さないことが最も重要ということが当たり前のことながら思い知らされるところだ。

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林道の使用者

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~林道は気持ちよく走りたい~

林道というものは、一義的には林業及び治山に関する作業を円滑に行うための通用路と考える。
副次的に周辺住民の生活用道路としても利用されるし、場合によっては、一般路と変わらない役目として、観光道路や迂回路としても利用されている。

このほかに、多分に趣味的な用途として、
林道を走ること自体を目的とすること、野営をしたり、山々の自然を単純に見聞して楽しむこと、山菜採りや狩猟、渓流での釣りなどのために入山すること、このような様々な用途においても併用されている。

林道は、通常、国であったり地方自治体であったりのレベルの差はあれ、いずれにしても公の下に管理され、ついては、その敷設や維持は、公の費用負担で賄われる純粋な公共設備である。

したがって、この利用にあたっては、絶対的制約は存しないのである。つまり、林道の使用は原則としては万人に対して自由であるということが基本である。

しかしながら、林道は本来の敷設目的、その他公の要請による施策によって、または、安全上の配慮などにより、ときに例外的に、全面的、もしくは特定者以外の立ち入り禁止等、何らかの制限が加えられる場合もある。

例外的に制限される場合の主なものを列挙してみる。

① 国有林等の健全的育成のための一般車閉鎖
② 林業作業の安全、効率化のための一般車閉鎖又は通行制限
③ 災害、工事作業のための一般車閉鎖又は通行制限
④ 自然保護を目的とした一般車閉鎖又は通行制限
⑤ 不法投棄防止のための一般車閉鎖
⑥ 危険走行排除のための一般車又は指定車種の閉鎖又は通行制限
⑦ 獣害予防のためのゲート開閉協力義務付け

よく見かけるのは、このようなところであり、大きく分けると林業の育成保護(①②)、人身の安全(③)、自然環境保護(④⑤)、周辺生活環境等の保全(⑥⑦)。こういった目的による規制に分類されるだろうか。

私ども、主に趣味的な用途で林道に立ち入る者は、林道の恩恵に預かりながら、それに対して、表面上は、ほとんど対価や資する行為を返すでもなく、ただ一方的に利用するに過ぎない※ということもあるのだから、このような規制が実施されているとき、いないときに関わらず、常にこうした問題の存在をより強く意識し、配意を怠らずに利用しなければならないと考える。
不法投棄などはもってのほかであるが、無謀な走行や、不適当な走行により、単独事故も含めた、他者に危険や手間を掛けさせる恐れの高い行為は厳に慎むべきであることは、一般の公共道路と何も変わらないというべきだろう。

(※もちろん租税というものを通じて、万人が林道の保全に投資しているのではあるが)

以上のように考えているところは、いまさら言うまでもないことばかりではあるが、今般、ある筋から意見をいただいたため、確認のためにここにあらためて記したところである。

ついては、別の立場、つまり、各保護等の対象とされる側の者についても、あえて触れる必要があるのだが、この被保護者的立場の者も、原則自由な林道の使用について、状況によっては保護される場合があるに過ぎないものであり、それゆえに特権があるのでもなく、まちがっても排他的権利があるなどと考えてはならず、やはり自身も公共施設を利用させてもらうという謙虚な立場での利用を心がけるということには変わりはないものと考える。

公共設備である林道の使用は、原則としては万人に対して自由であるが、それゆえに、万人がその保全等に努めなければならないと考え、そのうえに、利用者の楽しい林道ライフが成り立つものと思う次第である。


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