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ビオトープ

N20050605_019
~移入した水草に上陸する~

家の目の前にある池に、ちょっと広めの放水施設がある。
この放水施設は、池から放水されて下流へ流れる水を、二次的にストックし調整するための小さなダム状のものである。もともとは、全面コンクリートであったのだが、いまや、そこにたまる水とその周辺に、程よく水草や水辺の草が生え、貝類や小魚なども住みついて、ちょっとしたビオトープになってしまった。
それこそ、我が家がこの地に移り住んできた頃は、白いコンクリートだけの乾いた施設であったのに、時の流れとは早いものだ、もう15年以上の月日が流れている。

ところで、近時、各所でビオトープ作りが盛んであるようである。自宅の庭の片隅に作るささやかな大きさのものから、休耕田などを利用した大きなものまで様々であるが、いずれも、個人や管理する団体の想定する自然環境に模されて、豊かな生物環境を形成しているようだ。
このビオトープという言葉は、もともとバイオ=生き物、トープ=場所ということで、「生物群の繁殖環境」みたいな感じの意味であるが、現在においては、通常、「人の手による自然復元環境」というような感じに使われている。

この生物群の繁殖環境を創出するにおいて、自然のままに放置することも1つの方法であるのだが、そこに積極的に人が関わって、生物的に多様性のある環境へ導いていこうとするのが、ビオトープの考え方である。

しかし、このビオトープというものは、本来的な意味合いや、環境保全の観点からみると、必ずしも理想的環境ではないことが通例であり、自然環境、生態について純粋に取り組む方々にとっては、ビオトープというものは、歓迎されるものでもないのである。

それは、そのビオトープをプランするとき、プランナーの意思としては、より「豊かな自然」というものを意識しているのだとは思うが、それがいつしか、より「自然っぽく見栄えするもの」になってしまい、見た目によって、気に入った花を付ける植物を優先し、いかにも、ただの雑草らしいものは抜き取ってしまったりという園芸的なものになりかねないからである。また、水には熱帯産で花の綺麗なスイレンとかホテイアオイのような、本来は、その地になかった外来帰化種を浮かべたりといった具合に、結局出来上がるものがその地にあった環境ではなく、「独自にイメージした世界の擬似自然」となる傾向も低くないように思える。

さて、冒頭に書いた、我が家の近所の放水施設に成り立ったビオトープの話だが、実は、そこに繁茂した水草は、10年以上前に、私が近くの他の小川から採取して、それを、室内の水槽で小魚とともに飼育していたのだが、これをときおり剪定するときに、捨てて枯らしてしまうのも、少々かわいそうな気がして、その放水施設に植えた小枝が、その後にすっかり根付いてしまったものなのである。
まったく、違う地方の水草ではないが、本来そこになかった植物が繁殖したことになるわけであるし、目には見えずとも、おそらくは水草に付いていた微小な生物にまで目を向ければ、同様の事態になっていることが想像できる。

大げさに聞こえるかもしれないが、自然を維持しながら、人為で生態に手を加えることは、相当な慎重さが求められるということを強く感じた。
また、人が積極的に関わって創る自然環境の限界というものがある。いったん壊れた自然を取り戻す際も、その作業を人為で行う以上は同様であって、本当に元の姿を取り戻すということには、相当の困難があるだろう。だからこそ、壊さないことが最も重要ということが当たり前のことながら思い知らされるところだ。

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