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金星と土星の接近

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Photo : Nikon D200 / Tokina AT-X270 AF 28-70mm F2.8
~お楽しみは東雲に隠れてしまった~

東の空が白む前の早朝に床を出て星空を見上げた。

林道に出かけるときは、たいてい早朝に出るか、前夜から出かけるので、そのときも空は見上げはするが、今日は珍しく地元でじっくりと晩秋の空(いまごろの日の出前の空は晩秋から初冬の星々が見えている)を見上げることができた。
地元にしては、8月初めに赤城で見た星空ほどではないにしろ、月がなく、雲もない澄んだなかなかきれいな空だった。

早朝に床を出たのは、今日(8月27日)の日の出前後に金星と土星が4分角(1分角は1度の60分の1)まで接近するという、珍しい光景を見たかったからである。

もっとも、最も接近する時間は日が昇ってから3時間半以上も経った8時40分ころであるので、比較的口径のある望遠鏡(少なくとも10cmくらいは必要)で追尾していないと厳しいだろうが、まだ日の出る前の薄暗いうちでも、かなり接近しているはずで、見れるところまで見てみようと思っていた。

4分角というと、肉眼では2つの惑星が2つに分かれて見えるかどうかの角度であり、土星の輪が十分に見える大きさまで望遠鏡の倍率を上げてみても、その土星と金星とが1つの視野内に並んで収まるという角度であって、地上からはなかなか感じられない宇宙の立体感というものを感じられるのではないだろうか。

無数に見える恒星は、それぞれがあまりにも遠く、どんな大きな望遠鏡でも点にしか見えない。点と点を見比べても、あまり距離感というものは沸いてこないのだが、惑星のような一定の視面積を持った天体同士が並んで見えると、奥行きの距離感というものがかなり感じられるようになる。月の向こうに土星が隠れるような現象では、月の外縁は、まさに「隣りの星の地平線」そのものである。

さて、明るい惑星同士のこれだけの接近(地球からの観測で見た目の角度が近づくだけで両惑星の距離が実際に近づくという意味ではない)を特定の場所から見ることが出来るのは、10年や20年に1度くらいのことと思うので、期待に胸膨らませて金星と土星が東の空から昇ってくるのを待っていた。

ところが、なんとも空しいことに、それまで澄んでいた空にモヤモヤした雲がやってきて、東の空だけ隠してしまい。ついにはそのまま日が昇っても曇り空という残念なこととなった。
やれやれ、こうした気象のいたずらや、仕事への出勤などの事情も含めたら、10年や20年に1度どころではなく、一生に1度か2度見られるかどうかというくらいのことになってしまうのかもしれない。

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ブナの実と葉

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Photo : Nikon D200 / AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~東北日本のブナの森2~

「ブナ」という名の語源に定説はない。その葉が風に吹かれて「ブーンと鳴る」などともいわれるが、ただの安易なこじつけに聞こえなくもないし、案外それが素朴な真実だったとしてもなんら不思議はない。
しかし、ブナの特徴は、あのぎざぎざな外縁の葉だけでなく、白っぽい斑紋のある樹皮や、殻の中に堅果が2つ入った、かわいらしい実もとても顕著な特徴ではないだろうか。

ブナの実は、同じブナ科のシイ・ドングリの類の中で、ひとつひとつの実の大きさなどをみたら、さほど食べでがありそうなほうともいえないが、母体の樹が、ブナ林という圧倒的大規模な極相林をなすために、絶対量は豊富であって、東北日本の森に住む動物達にとっては、重要な食物となる。
また、実が収穫される秋は、厳しい冬を間近に控え、できるだけ多くの蓄えが欲しい時期ということもあり、特にその重要さは増すだろう。

われわれ人間も、ブナとの関係は深く、特に東日本のほうが栄えていた縄文時代においては、ブナの実は貴重な食物であったし、ブナの森があったからこその縄文文化ともいわれるくらいである。

この実は毎年同じようには実らない。豊作は数年に一度しかなく、森の動物たちにとって重要なブナの実が、特に凶作だった年になると、食料難となってクマやサルなども麓に出没し、獣害の発生数にも影響するようだ。

ブナは、いわずと知れた落葉樹であるから、大きな極相林では、毎年多量のブナの葉が層になって積もってゆく。この落葉が分解するまでに至る過程での微小生物などの営みのことなども考えると、やはり、東北日本の山の森はブナという樹に育まれた森であるといえるし、落葉が、降った雨水をすぐには川に逃がさず、いつも一定量の水を保つ「緑のダム」ともいわれるように、豊かな水の源でもある

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惑星の定義

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Photo : Nikon D200 / MC RUBINAR MACRO 1000mm-f10
~それならば月は惑星ではないのか?~

新聞の見出しは「太陽系の惑星 新たに3個」。

現実に比べて、やけにセンセーショナルな表題なのは新聞などのメディアの常だろうが、かなりピンと来ない見出しである。

これは、国際天文学連合において近々太陽系の「惑星」の定義づけを行おうとする動きの中で先行的に示された定義案を言っているのであるが、そもそも、人間という存在に関わらず、そこに元々存在している天体について、人間の感性の範囲で定義するのであるから、どうにでもなるといえばどうにでもなることであって、なにか新しい天体や法則などが発見されたりしたものとはまったく次元の違う話である。

また、今回の定義は正確に言えば「惑星」ではなくて、「大惑星」又は「大きな惑星」の定義なのではないか(後述)。

さらに、この定義による分類は、学会で厳密な分類をしなければならないときのみに必要な定義付けの域を出ない、まさに専門的な範囲内での話になってしまうので、おそらくは、今回話が一段落したら、この定義は一般にはどうでもよい話になってしまうのではないかと想像される。
まあ、この定義が必要な主たる理由は、近年相次いで発見されている冥王星以遠を回る比較的大きな天体の位置づけに苦慮していることにあるのだとは思うが。

私がずっと持っていた「惑星」というおぼろげな定義は、「恒星に対しその周りを円に近い楕円の公転軌道を持って周回する天体」で、彗星のような長軸と短軸の差が大きな楕円軌道のものは除かれるのかなといったところだ。

したがって、一般にいわれる9つの惑星以外の小さな天体でも、円に近い軌道で太陽の周りを回る、例えば火星と木星の公転軌道の間に公転軌道を持つ小惑星のセレスやパラスなどももちろん惑星であると理解していたし、実際にこれらは現に「惑星」である。

そのうえで、水星から冥王星までの9つの惑星は、大きな惑星、それ以外を小さな惑星という、1レベル下のくくりでみるのが自然である。ただ、冥王星の公転軌道は、かなり円からかけ離れた楕円の軌道であることから見ても、また、本体の大きさから見ても、他の8つとはやや整合性がなく、正直なところ大きな惑星からははずしたいと感じる(水星の公転軌道も同様にやや危ないのだが)。

今回公表された定義で、大きさについての定義は、質量地球の1万分の1、直径800km以上という数値である。そして、これに従って、小惑星セレスと、冥王星の外側に2003年に発見されていた新惑星の2003UB313を新たに「惑星」とするというところまでは、単に定義なのだから、それはそれでわからなくもない。しかし、解りづらいのは、新たに惑星とする候補3つの残る1つ、これまで冥王星の衛星とされてきたカロンであるが、確かに、冥王星とさほど変わらないの大きさの比率などから見て、冥王星を二重惑星と位置づけるということなのだろうが、そうであれば、地球と月も似たような関係であるし(惑星と衛星の関係としては大きさが近い)、その直径だけでいったら、カロンやセレスより大きな衛星など月以外にもたくさんある。

衛星とは、惑星を周回する公転軌道を持つ天体のことではあるけれども、惑星を周回と言いつつも、実は惑星も衛星に対して不動であるわけでなく、正確に言えば互いに回りあっている。ただ、大差のある重量差ゆえに、衛星のみが惑星の周りを回っているように扱っても差し支えない範囲であると言うに過ぎないから、確かにどんな衛星と言えども、主惑星とともに二重もしくは多重惑星とみることも出来なくはない。
そうであれば、なおさら、どうしてカロンだけが惑星扱いとなるかはやや解りづらい。

個人的には、天文界の歴史背景を重んじたとしても、まだ見ぬ未知の天体を別とすれば、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星までを科学的もしくは合理的な分類としてでなく、観念上の分類として「大きな惑星」とするのがやはり自然に感じる。
なお、それ以外の、太陽を公転周回する彗星も含めた天体は、案外単純でなく、ここで今回だけでは書ききれない様々な形態、主にその天体の成因による仲間分けが考えられるし、衛星とされている天体もあわせて考えると、太陽系の出来あがりかたについての現在までの理解の範囲では、合理的分類はなかなか難しい気がする。

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白神のシンボル

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Photo : Nikon D200 / AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~東北日本のブナの森1~

白神山地の麓で幾日かを過ごしてきた。
滞在型で夏休みを一地方で過ごすのが好きである。行って来い型やつまみ食い型の旅では、時間に囚われて、そこにある豊かな自然や素朴な人の営みの本質に、じっくり触れる機会を得ることがなかなか難しい。

さて、白神山地といえば、いまや言わずと知れたブナの原生林である。世界遺産登録で著名とはいえ、ブナの原生林なら、南東北の飯豊山や朝日岳周辺なども、なかなかいい森が残っているのではあるが、その全体の規模という点では、白神山地のブナの原生林は抜きん出て広大な森である。

そのブナの森で白神のシンボルともいわれる巨木に出会った。
時折のぞく岩と苔、そして深い落ち葉の層に覆われた、なにか神聖な地のような森の真ん中に根を張り枝を伸ばしたまさにこの森の主。
樹齢は400年で、樹高26m、幹周り4.85mであるという。
400回夏の日差しの恵みを受け、400回雪に埋もれてきた年月の重さをずっしり備えたその樹のそばに立つと、不思議な安心感につつまれる。

ブナの森の画像

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ミヤマカラスアゲハの光沢地域差

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Photo : Nikon E5700
~目を奪われる美しい翅~

先月下旬に栃木の林道で主に蝶・トンボを見てきた。
走って来た見通沢林道ほかの様子は本サイトのツーリングレポートを参照いただきたいが、ここでは、同レポにも書いたが、ミヤマカラスアゲハの光沢について書きたい。

ミヤマカラスアゲハは、黒地の翅に美しい青緑系の光沢があるカラスアゲハによく似ており、更にそれに輪をかけて鮮やかな光沢がある大型のアゲハである。夏の林道では、比較的よく見かけ、水場でオスが大集団で給水しているところなども、よく見ることができる。

このミヤマカラスアゲハの、ときにブルー系、ときにグリーン系の反射光沢色は、経験上、どうも地方によって違いがあるのではないだろうかというのが、レポで投げかけた疑問であったが、いろいろ調べてみようと思ったものの、どうも、その答えにすぐには行きつけそうではない。

ミヤマカラスアゲハの給水は、オスが生殖に必要なミネラルを採るための行動ではないかというのが有力説である(給水行動はオスにしかみられない)。
その給水や幼虫の時に摂取する植物から、その地方の地質が含む、特有の金属元素を体内に採りこむこととなり、それが世代に渡って蓄積し、金属の特長によって発色の作用が出るのではないかというのが、はじめに想像したところであったのだが、よく考えると、蝶の翅が金属光沢に見えるのは、細かい凹凸からの反射によって生じる光の干渉であって、そこに実際に金属があるからというのではないのだから、ここで仮説はいきなり怪しくなる。

そうなると、なんとなくの経験上で決めつけていた地域による光沢色の差異という現象自体が、そもそも本当に存在するのかどうかというところからもう一度見なおす必要がある気がしてきた。
話は降り出しに戻ってしまったわけだ。

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真夏の太陽と近日点

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Photo : Nikon D200 / AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
木陰が恋しい夏の空

梅雨は明けたということであるが、今年は本当の夏がなかなか来ない。
だいたい、自分の頭上の空模様はともかく、天気図をみても、発達した太平洋高気圧の姿など見当たらず、まったく夏型とは程遠い気圧配置となっている。

ともあれ、夏といえば、やはり照りつける太陽である。
子供の頃は、一人で虫網や玉網を持ってよく出かけた。出がけには、玄関先で麦わら帽子を無理やりかぶらされたものだが、あのチクチクする感触がいやで、家を出るとすぐ脱いでしまったものだ。

真夏というのは、7月の終わりから8月初旬を差すものと認識しているが、この時期の太陽というのは、夏至はもうずいぶん前に(6月下旬)過ぎ去って、既に南中高度は日に日に低下し始めている。

にもかかわらず、気温はやはり夏至の頃より今の方が高くなりやすいのが普通である。これは、真冬でも同じことであるが、太陽熱で生じる四季も、ストレートに入射熱量の絶対値だけで左右されるのではなく、地球がすぐには暖まらない、また、いったん暖まったら熱を簡単には逃がさない大地や海や大気に覆われているためであって、寒暖のピークというのは、日射の強さのピークより少々遅れて訪れる。

夏の太陽は、冬に比べると遥かに頭上近くを通ってゆくのだが、それだけでなく、どことなく冬より近くて力強くも感じる。
では、実際の太陽までの距離というのはどうであろうか。

地球は真円に近い楕円軌道で太陽の周りを年に一回公転しているので、その軌道上には太陽に最も近づく点(近日点)と、最も離れる点(遠日点)があり、地球は年に一回ずつそれらを通過することになるわけだが、地球が太陽に最も近づく近日点は、実は1月初旬ごろ、逆に離れる遠日点は7月初旬ごろであって、北半球は近日点が冬である。

したがって、日本で見た太陽が、冬より夏の方が近く感じるとしても、それは、深い入射角(太陽の高度が高い)と気温から感じるイメージに過ぎず、微妙な数値では、冬の方が太陽は近く大きいことがわかる。

そうはいっても、それこそ地球の公転軌道はさほどひしゃげた楕円ではないので、遠近の差はごく僅かであって、入射角と気温から感じるイメージのほうが優先しても不思議はないかもしれない。

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