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アリの土盛り(その1)

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~格好の餌食に黒山となるアリたち~

夏の夕刻、セミの幼虫が羽化のために地上へ現われる。羽化が始まったまではよかったが、運悪く木から転落してしまったりすると、アリがいち早くこれを発見し、たちまち黒山のように集まってきて餌にして、セミはそこで息絶える。子供のころ、大変に切ない思いで見てきた光景であった。今となって見ても気の毒ではあるが、セミだけを特別視することもなく、淡々と自然の摂理であると整理しているが、ここに子供のころから変わらない不思議が残っていた。

セミの幼虫がころがり落ちた場所は、建物の軒下にあるコンクリートの土間の上だった。そこで、セミの幼虫の亡骸に黒ゴマをまぶしたかのごとくアリたちが取り付いて、解体作業が始まる。

さて、しばらく哀れな思いでその様子を観察してから数時間後、再びその進行具合を見に行くと、現場はちょっと様子に変化がみられた。

セミの幼虫の亡骸は、既に内部の肉質部分はある程度持ちだされているのかもしれないが、半透明の堅い外皮の中まではよく見えない。とりあえず外観では先ほどとあまり変わったようにはみえない。しかし、周囲の様子が一変している。

アリは、相変わらずおびただしい黒山をなしているのであるが、セミの幼虫の亡骸の周囲には、いつしか土盛りがされている。はて、この土盛りはいったいなんであるのか。

今回、観察したアリは、トビイロケアリである。どこの住宅地でもごく普通に見られるアリのうち、やや小さめで茶色いアリである。もう少し大きめで黒灰色のクロヤマアリとともに、最も普通種の一種だといえる。

ここでアリの食料となったのはセミの幼虫の亡骸であるが、過去に幾度となく見てきた同様の観察例を考えれば、対象が他の昆虫であろうと、ミミズであろうと、子供が落としたアメ玉であろうと、アリにとって、ある程度大きさのある食料ならば、この状況は、みな共通している。

また、さらに数時間後、土盛りは、セミの幼虫の亡骸をすっぽり覆ってしまい、外からみると、ただの小さな砂山になってしまった。

そして、2日後、そっと土盛りを崩し、中の様子を伺ってみると、案の定、セミの幼虫の亡骸は、外皮だけを残して、文字どおりセミの抜けがら状態になり、中身は運び去られている。崩した土盛りの中にはアリがほんの数匹、残務整理でもしているかのように散らばって見つかる程度で、もはやあの活況はなくなっている。

この、アリが食物に土を盛る現象?、習性?、はたまた行程は、いったいどういう意味があるというのだろうか。
(つづく)

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構造色

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~微小構造が生む不思議な色~

沢沿いを歩いていると、キラキラとまぶしい水面の反射のなかにひらひらと翔ぶ昆虫のシルエットが目に映った。

ひらひらとした翅の動きはまるで蝶のようであるが、飛翔軌跡は蝶とは違い線形的であり、そのシルエットがトンボのものであるとわかる。翅の大部分は黒っぽく色が付き、後翅だけが、トンボとしてはやけに幅広く、対して、胴は短い。
比較的、自然の保存度が高い川に住むチョウトンボである。

子供の頃の私の家は、平地の住宅地の真ん中にあり、多様な生き物との触れあいの場としては、せいぜい住宅地周辺の、遠からず埋め立てられてしまうであろう田んぼが残っていた程度で、チョウトンボを見ることはなかったから、たまに山際にあった父の生家に遊びにいった時には、よく、裏手の小川でこのトンボの姿を追ったものであった。

チョウトンボの翅の色はといえば黒なのだが、同様に黒い翅をもつカラスアゲハなどとも共通する美しい翅の輝きを持っている。見る角度によって青や緑の金属光沢を放つこの色彩は、構造色といって翅そのものの色ではない。

昆虫には、ほかにもタマムシやコムラサキなどのように、見る角度で美しい光沢を見せるものたちがいる。CDやDVDなどの、オプティカル・ディスクに見られるあの虹のような色彩もこれと同種であるのだが、翅がもつ微小な構造が起こす光の回折と干渉によって生みだされた色彩である。

光は、波の性格と粒子の性格を併せ持ったような進み方をする。一般的には直進的で理解しやすい粒子っぽい性格が現れているように見えるが、ときに回折や干渉といった波動ならではの進み方も見せる。

小さな穴を光が通りぬけると、粒子の性格だけならば、穴を抜けた粒子だけが、そのまままっすぐ進むところであるのに、ここで、波の性格が出て、穴を抜けたあとの光は、そこから広がるように進む。小さな構造物からの反射でも同じ事が起こり、これらを「回折」という。また、波でもある複数の光が、互いに重なって強めあうことや、逆に打ち消しあうこともあって、それを「干渉」という。

それらの光の性質をここで詳しく述べるつもりはないのであるが、ともかく、チョウトンボの翅にある無数の微小な凹凸の構造によって、反射光が回折と干渉によって、一定の方向から見ると、特定の波長の光だけが集まって強められ、あの青い光沢を見せるのである。

では、はたしてそのような微小な構造をなして、こういった色彩を発することの意味はなんであるのか。なぜ、このような構造を形作るに至ったのか。このへんが、生物の最も不思議な部分であるのだが、もちろんその答えは用意できない。

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スイレンとハス

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~スイレン(左)もハス(右)も見ごろになった~

夏のまぶしい湖面を彩る花といえばスイレン。水面上に色鮮やかな花を浮かべる。

実際には、花は水面より少し高く咲くが、花が浮かぶといった方がイメージに近い。

スイレンとは「睡蓮」と書き、この名前でよく通っているが、実は日本に自生するスイレンはヒツジグサが正式な標準和名である。

ヒツジグサといわれても、どこがヒツジなのかと思うが、見た目が羊なのではなく、「未草」であり、午後2時ころ未(ヒツジ)の刻に開く花ということで付いた名前だと説明されている。

なるほど、と思ってしまいそうだが、観察力をお持ちの方なら、そんな時間にならなければ咲かない花だったろうかということに、すぐ気付くのではないだろうか、実際には、早朝から既に花は開き、夕刻近くまで花は開いているはずである。どうして名前だけそうなってしまったのか、よく分からない。

では、睡蓮という、よく通った方の名はなにかというと、これは中国名である。スイレンは花を閉じたあと、眠るように水中に没してしまうのであるが、この様を眠ると捉えたのだろうか。

一方のハスであるが、こちらはスイレンと比べて水面よりずっと上の方に花を付ける。そして、花はより大型であり、花びらに透明感がある。
ただ、横から見る限りは大変に秀麗なこの花も、真上から見ると、花の真ん中に果托といって、蜂の巣のようなもの、見方によってはブタの鼻のようなものがあるのが、ちょっと間抜けで可笑しい。

ハスという名は、その果托をハチの巣と見立てて、ハチスといったのが詰まった名前であるとされている。花が終わるとスイレンのように水中に没せず、そのまま花びらだけ落として果托が残る。きっと、その姿なら見覚えがあるのではないだろうか。

また、「蓮」も「睡蓮」同様に中国名であるが、正規には「蓮華」(レンゲ)といい、仏教上重要な花であることもよく知られる。きっと、草の「レンゲソウ」は、花が蓮華の花に似ているということなのだろう。

このほかにも、スイレンとハスではいくつもの違いがあって、例えば葉の形状で見ると、スイレンは、テカテカと艶があり、切れ込みのある円形をしていて水に浮くが、一方のハスは、表面はテカらずに水をはじき、切れ目のない円形の葉は、成長して伸びてくると、たいてい水面より高いところに開くなどまるで違うのであるが、全体としてはなんとなく似ているので、意識なく混同されていることが多いように思う。

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