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近距離双眼鏡(ペンタックス・パピリオ)

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~両眼視認できるマクロレンズのよう~

手持ち用の双眼鏡というのは、これまでも鳥や星などを見るのに時折使ってきた。7倍とか10倍というふうに、たいした拡大率ではないが、両眼で見ることができるというのは、片目で見る望遠鏡(単眼鏡)と比べると、視界の安定感に雲泥の差があり、また、拡大率の高い焦点距離が長い双眼鏡や望遠鏡に比べるとずっとコンパクトであるから、その拡大率に適した対象物ならば、気軽に手持ちで観察できるという使い勝手において、他の機材を大きく凌ぐ(念のため、手持ちの高倍率双眼鏡というのは、まったく役に立たないので注意。)。

通常、双眼鏡は基本的に遠方の対象物の拡大鏡である。この点は望遠鏡も同じである。
ところが、最近、こんな常識を破る商品が数年前(2004年11月)から登場していたことに遅ればせながら気づいた。それは、近距離を観察することを主眼に入れた近距離双眼鏡(ペンタックス・パピリオ)というものである。手も届くような近距離であれば、ぐっと生で近寄って裸眼で十分見れるだろうなどと思うかもしれないが、昆虫や植物の繊細な構造は、ちょっと寄ったくらいでは判らないほどつくりが細かい。
まして、昆虫などは、そんなに寄ったら当然逃げてしまうわけで、実際には裸眼ではあまり近接観察できる代物ではないのである。

この双眼鏡は、拡大率6.5倍の口径21mmというスペックであるが、近接観察という目的によくあった倍率にとても好感が持てる。これよりも拡大して手振れする倍率となっては、安定して楽しい観察はできないだろう。また、コンパクトな単眼鏡の中には、もっと近くまで寄ることができるものが存在することは知っているが、片目で観察するこちらにはそれほどの魅力は感じないのである。

迷うことなく直ちにこの近距離双眼鏡購入し。届いた双眼鏡を早速覗き込んでみた。自分を満足させることは間違いないだろうと確信していたのだが、これがまた、実物は想像していた以上のすばらしい視界を見せてくれた。

ちょっと見た感じは、ボケ味の利いて主体を美しく見せるマクロレンズの描写のようでもあるが、何しろ双眼である。カメラのファインダー越しに片目で覗いていたマクロの世界が、ステレオで楽しめるのである。そして、その効果は両目だからじっくり見ることができ目の疲れもなく、立体感が片目観察とはまったく違う。

例えばクロオオアリなら、カブトムシのように見え、あまりかがみ込んで見れない水中のオタマジャクシもフナのように大きい、草花を覗き込めば、花粉まではっきり見えるし、気付かなかった微小な昆虫が付いていることに気付いたりする。ともかく、ずっと見ていても飽きない。

この近距離双眼鏡は、観察対象物まで50cmまで近接しても焦点が合う。通常の双眼鏡の近接合焦距離は、近いものでもせいぜい3mくらいだろうか、近くを見るためには、レンズの焦点を近距離に合わすことが必要であるのは当然であるが、そればかりでなく、人の目で例えていえば寄り目のように見る方向がそれぞれ内側を向く仕組みも備えていないと、右目と左目に見えるものが左右に離れた別々のものになってしまう。
そのへんも、うまく機構を組み込んであって、焦点を近くにするにしたがい光軸が焦点にあわせて内側に向くようになっている。

もちろん、カメラのマクロレンズと同様に、近接だけではなく無限遠まで焦点は合うので、まったく通常の双眼鏡として、野鳥や星空の観察など万能に使えるわけである。また、その価額が1万円少々というローレンジであるのはたいへんありがたい。価格なりの光学系ではあるのだろうが、実物を覗いた印象では、問題となるような収差が目立つというようなことはなく、観察に十分なものであって、コストパフォーマンスはすこぶるいいと感じた。

すっかり商品レビューそのものとなってしまったが、昆虫などの小さな生物や野草など自然観察派の方には絶対お勧めであるので、どうしても紹介したかった次第である。


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※これは、実際の視界ではなくイメージとして作成したもの。実際は、遠方で300mmレンズ、近接は等倍マクロレンズの最近接時に対し3/4程度だろうか(いずれも35mm換算)。カメラ三脚用の三脚座も付いていて、三脚装着前提なら、もう一つの高倍率モデル8.5倍21mmもいいかもしれないが、手持ちなら6.5倍程度が適度だろう。

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海鳴り

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~打ち寄せる波涛の轟き~

海鳴りを聴いたことがあるだろうか。
海鳴りというのは、単に海辺で聴こえてくる波の音であるとか、いわゆる潮騒といわれるものとは違う。

5月中旬のある晩、いつものように、窓を開いて外の様子を伺った後に就寝しようという時間であったが、どうもいつもと空気が違うのが気になった。夜の闇全体が重い低音の周波に包まれているような気がするのである。

初めは、航空機がこのような時間帯だというのにやけに大きな音を響かせて飛んでいるものだなあと思ったが、しばしの後、いや、この地の底から止めどなく湧きあがるような轟きは、忘れかけていたが、海の響きだということを思いだした。

我が家から海までは直線で5kmちょっとある。それに、家は台地のど真ん中にあって、途中には小さな標高差とはいえ、音の伝播には十分障害となろう起伏があるから、普通は海の音など聞こえようもない。しかし、この日は、遥か沖にある台風の影響で、海上は荒れているのだろう。そして、上層の空気と低層の空気の温度差が大きいなどによる、なにかしら音が遠方に伝わりやすい条件は整っていたのだと思う。

ともかく、その晩聞こえてきた、得体の知れない唸り声のような海鳴りは、ずいぶん久しぶりに聴いたもののような気がした。

私が育った家は、今の家より少しは海に近かったし、そのまま海岸まで続く平野部にあったが、それでも直線で4km少々はあったから、決して海辺とか港町とかいう環境ではないし、やはり、普段は海の音など聞こえる場所ではない。

私が少年期の夏の夜、当時はエアコンなどなかったから、網戸ごしとか、更に時代を遡ればカヤを吊り、開け放った戸の外から流れ込む僅かばかりではあってもひんやりとしたそよ風に涼を求めたものだった。

そうやって、息を潜めていると、様々な音色が聞こえてきた。鳴く虫の種類で、同じ夏といえども、少しづつ季節が流れていくのも感じられた。

7月末ごろ以降になると、海鳴りがよく聞こえるようになったような気がする。やはり、遥か南の海上の台風の影響などで波が高くなるのだろうか。寝つく前に、母からあれは土用波の音だと聴かされ、土用波とは何だろう。普通の波とは何か違うのだろうかと、巨大なうねりに荒れる海の姿を遠く想像したものだった。

当時の自分自身が多感な少年期だったということもあるだろうが、そればかりでなく、家族で枕を並べて誰かが何々の音が聞こえるといっては、みなで聞こえてくる些細な音にじっと耳を傾け、敏感に季節の流れに思いを馳せるというように、今より、もっと肌身で自然を感じ取ることのできる環境がある時代だったように思う。

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ニホントカゲの巣穴

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~土の中の子育ての家~

日当たりのよい日、自分が歩を進める度に「カサコソッ」という枯れ草をすばやく這うような足音が聴こえる。ニホントカゲの足音だろう。

ニホントカゲは、特に春など日向にもよく出ているが、かなり警戒心が強い。人の足音を聞くと、さっと石の間や穴に入ってしまう。もともと土の下が生活の場でもあるようで、そこで大半の時間を過ごしているのは当然なのかもしれない。

4月晩春から5月初夏のちょうど今頃の時期、ニホントカゲは繁殖期に入る。出歩くトカゲを見かけるよく見ると、喉のあたりが血でも流したようにオレンジ色をしていることもある。喉に色が出るのは繁殖期のオスの特徴で、オスは特にこの時期は闘争的で、他のオスと激しく噛みつきあって戦っているのをみることもある。

いつもニホントカゲが出入りしているのを見かける斜面に、ニホントカゲの巣穴らしきものが掘ってあるのを見つけた。はたして自ら穴を掘るのか、なんらかの穴や隙間を利用しているのかよく分からないが、入口の形はなんとなくニホントカゲの体型にあっているように見えなくもない。

この穴をずっと見ていたら、ちょうど家主が出入りするところに出くわした。周辺にもいくつか同様の穴があって、出てきた主は、あちらこちらの穴を確かめては出てくる動作を繰り返したりしていた。その時点ではそれらの穴同士が地中で繋がっているようには感じられない。

ニホントカゲの雌は、これらの巣穴に10個前後の卵を生み、ひと月あまりかかる孵化までの間、ずっと卵を守るという。出たり入ったりの動作は、長期戦となる子育てのために、巣穴の品定めでもしていたのだろうか。

しばらくしてから、この穴を探すと、どうやってそうしたものか、巣穴の入口は埋められているか、またはコケの塊を被せられていて、どこにその穴があったのか、容易には分からなくなっていた。
(画像はかなりの手ぶれですがご勘弁を)

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シロバナタンポポ

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~主に西日本に分布する在来タンポポ~

いつもの散歩道とちょっと違う道で、シロバナタンポポを久しぶりに見かけた。白いタンポポと聞くと、ある地方では当たり前かもしれないし、ある地方ではとても珍しく感じるだろう。だいたい関東の南西端以西の西日本に分布するタンポポであり、私のいる千葉県東部ではほとんど見かけない。

タンポポには、日本全国に広まったヨーロッパ産のセイヨウタンポポと、各地方に元々分布していた在来種、例えば関東地方ならカントウタンポポなどの日本のタンポポがあって、大雑把にいえば形はみな似ているが、その簡単な見分け方は、花の下側を包む総苞の外片を見ることである。

セイヨウタンポポはこれが反り返り、在来のタンポポの多くは反らずに花に圧着する。ただ、シロバナタンポポは、総苞外片がわずかに反るのだが、とにかく花が白いので他のタンポポとの違いが一目瞭然である。

在来種のタンポポであるとはいえ、このシロバナタンポポは、どうやら他の在来種同士の交雑によってできたタンポポであるらしい。そして、交雑で生まれたためかどうか、有性生殖ではなく単為生殖(または無性生殖。花粉が雌しべに受粉しなくても種子をつくれる。)を行う。

今回見かけたシロバナタンポポも、カントウタンポポのように群がってはおらず、2株ほどのごく少数だけそこにみられ、いかにも単為生殖の植物であるという感じはあった。

単為生殖で増えるというところは、セイヨウタンポポと同じである。となれば、セイヨウタンポポが開発で破壊された荒地環境へと勢力を広げやすいのと同様に、東日本の荒地にもどんどん勢力を拡大してきてもよさそうであるが、そこは、それほど単純な自然界ではない。

セイヨウタンポポは、四季にわたって開花するという強力そうな戦略を持っている(それが強いといえるかは一概に決められない)。しかし、他の在来のタンポポ同様に春しか咲かないシロバナタンポポには、セイヨウタンポポ同様に荒地へと進出する繁殖力はなさそうである。

それでも、草が高く生い茂る夏秋には無理をせず休息し、春だけに集中する在来のタンポポの生活スタイルにあった場所でなら、東日本のカントウタンポポやエゾタンポポの生息域にも勢力を伸ばしてきそうな気はするのだが。

ところで、そもそもタンポポという草、世界に目を向けると、単為生殖であるのが普通であって、日本在来の種のように有性生殖するタンポポというのは、むしろ、ごく限られた地域にしかない珍しいタンポポであるようだ。

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シャボン玉の映り込み(その3)

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~スプーンで再現した正立像と倒立像~

シャボン玉の映り込みについて、星の写真屋さんであり、いつもとてもお世話になっているARGOさんから貴重な考察をいただいた。

簡単に書くと、
まず、シャボン玉に写った正立と倒立の2つの像の反射面であるが、正立像はシャボン玉のこちら側の面で凸面、また、倒立像は私が前回書いたシャボン玉の向こう側の面での2回反射などとは考えずに、シャボン玉の向こう側の面は凹面であるのだから、単純に1回反射で倒立するだろうということ。
次に、各像の大きさは、確かに(その2)に掲載した撮影者の私の像のように近接した対象物は、倒立像が大きいが、(その1)の家屋の像を比べると、正立像のほうが大きく、これら大きさが違って映るのは、凸面と凹面にカメラからの距離の差の問題ということである。

最初のご指摘は、かなり私がうっかりしていた点である。凸面鏡には正立像が写るのはいいとして、凹面鏡に倒立像が映るというのは、いまさらながら考えれば当たり前のことであった。丸スプーンでの模擬実験のヒントまでいただき、おそらく正解といっていい考えで、大納得である。
したがって、この記事の(その2)に書いたことのうち、向こう側(裏側)の面での反射は2回ではなく1回に訂正する必要がある。

2つ目の像の大きさについては、上下反転画像との合成画像まで作成して説明いただいた。確かに家屋の像は正立像のほうが大きくて、撮影者の像の大小とは結果が逆である(元画像を私のノートパソコンのモニターいっぱいの表示で確認すると、正立像は77mm、倒立像は74mmだった。)。
この大きさの違いについては、凹面鏡のパースペクティブ(遠近感)の問題であるので、キッチリした答えはなお検討が必要だと思うが、基本的には無限遠の距離にある対象物は、より近くにある凸面で反射した正立像の方が大きく見えるのだろうということになろう。

ヒントをいただいたスプーンの反射を使い、シャボン玉を撮影した同じ場所にて、凸面と凹面の反射像を並べて掲載してみた。

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シャボン玉の映り込み(その1)
シャボン玉の映り込み(その2)

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シャボン玉の映り込み(その2)

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~合成された点対称~

シャボン玉に歪曲しながら凝縮された映り込みは、なぜ点対称の像となるのだろうか。
夕空に浮かぶシャボン玉の色の美しさに見とれながらも、その妖しく歪んだ不思議な映り込みの理由に頭をめぐらせてみたが、答えとまでいえそうな確かなものにはたどり着かなかった。

まず、考えられることは、シャボン玉の球体には上下ともに同じく空が映っているのだから、決して単一の面で反射された1つの像ではないといえるだろう。つまり、シャボン玉全体としては、同じものが2つ映っていて、その2つの像は、それぞれ別の場所で反射し又は別のルートを通ってきた光が合成されて見える像であるはずだということだ。

そして当然考えなくてはならないのは、その2つの像をなす光のルートはどのようなものだろうかということになる。この記事の(その1)で、シャボン玉の虹色迷彩の反射に簡単に触れたが、その説明からいうと、シャボン玉は膜の外面と内面でそれぞれ光を反射しているということになるから、この美しいシンメトリー風景は、それら2つの面で反射した像の合成ということになるだろうか。

いやいや、これでは、最後の詰めの点対称を説明できない。この場合にできる2つの像は、その位置がずれても上下左右が入れ替わるような関係にはないだろう。

では、どう考えたらよいか。
ヒントとなりそうなのことの一つは、「2つの像は一方が正立像で、もう一方は倒立像である」ということである。正確には、正立像の方の像の向きは普通の鏡と同様に上下は同じで、左右も自分に対して同じ(向かっての左右でいうと逆になる)像であるから、正立像だけなら、金属の球に写った像とだいたい同じものと考えてよさそうである。そして、倒立像の方は正立像に対して上下、左右とも倒立している点が見逃せない。

もう一つヒントとなりそうなのは、近くで観察すると分かるのだが「正立像はやや小さく、倒立像はやや大きい」ということである。そして、シャボン玉に寄って撮った写真を見ると、2つの像のピントには若干の差がある(これらを、上の写真でシャボン玉中央に写っている私の姿で確認すると、正立像は少しボケて小さく、倒立像は大きくシャープ。)。

これらから考えると、写っている対象(自宅住居)から私の目までの光の経路中、光が反射した数は奇数と偶数の違いがあると思われる。そして、おそらく正立像のほうは、球体の自分に面した表面1回の反射だろう。また、倒立像の方はたぶん2回反射した光と思われ、光の経路を私の目から逆に辿ると、シャボン玉の球体の膜のうち、自分に近いこちら側の膜を通過し、球体の中に入った後に向こう側の膜の内面を2回反射し、再度こちら側の膜を通過して自分の背後へと向かうということになるのではなかろうか。

しばらく考えて見たが、頭だけで思いつくのは、この辺が限界である。ちゃんと理詰めで考える力があれば、すぐ分かるような気もしてきたが、残念ながら今の私には、その理詰めをする力がない。しかし、もう少し自分だけの宿題として楽しんでみようと思う。

夕日が落ちて闇の迫る薄暮の時間、シャボン玉も次第にその色を失っていった。

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シャボン玉の映り込み(その1)
シャボン玉の映り込み(その3)

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シャボン玉の映り込み(その1)

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~点対称の夕空の謎~

夕暮れ近く寂しい空気が漂う時間、サンダル履きで庭に降りてぼんやりとしていると、どこからともなく、浮遊物がやってきて目の前をゆっくり過ぎてゆく。シャボン玉だった。

シャボン玉のやって来た方を見れば、庭石の上に裸足で降り立った私の娘が、しみじみとシャボン玉を飛ばしている。幼少の時分からシャボン玉好きではあったが、いまやもう女子高生である。年月の流れは早いもの。私自身のことについては少々焦燥さえも覚えなくもないのだが、自らの口許から次々送り出される透明でいて迷彩色を放つ球体を追う彼女の瞳には、幼少の頃と何も変わっていない懐かしい光があった。

シャボン玉が妖しい虹色迷彩を放つことは、誰しもその目で見知っていることだと思う。虹色のできる理由は、別の角度で入ってきた光が球体をなす薄い膜(この厚さが光の波長程度のとき虹が見える)の外面と内面のそれぞれで反射されて、人の目には同じ方向で入ってくるとき、波にズレがあるために、相互の光の波が干渉を起こすということによると説明される。
もっと正確で詳しい話まで突き詰めたら、かなり難しい話でもあるが、大雑把になら全く理解できないということもない。

目の前を通りすぎてゆく大小の迷彩球を、私は左から右へと次々見送っていたが、やはり、光が横から射す朝夕の光というのはドラマチックである。それらの球体は、迷彩の向こうに夕暮れ迫る空のオレンジをも映し込んでいた。

そして、私に驚きと疑問を与えてくれたのは、そのオレンジの空にさらに黒く浮かび上がる我が家のシルエットだった。球体であるシャボン玉に魚眼レンズを覗いたように歪んだ景色が映り込むのは想像にかたくない。むしろ自然である。けれども、シャボン玉の下半球に映っているのは、暗い庭の景色ではなく上半球に映っているのと同様にオレンジの空と我が家のシルエットである。

しかも、その映り込みに浮かび上がる我が家のシルエットは、上半球と下半球では正反対の像であり、上下の像は点対称の関係にある。いったい、これはどういうことなのだろうか。

考えるのはともかく後にして、しばし私はこの美しい像をただ眺めていた。娘はあいかわらず次々と大小の美しい球体を送り出し、私は凝縮されたシンメトリーの夕空を追い続けた。(→つづく

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