次世代のアリジゴク
我が家の軒下に住むアリジゴクが、6月から7月に次々と巣立っていった。
巣立っていった彼らの余命は僅かな日数であったとはいえ、これまで見守ってきた幼生たちが、美しい翅を持ったウスバカゲロウとして、長い地下の生活から空へと旅立ったことは、やはりうれしく思われた。
一方、今シーズン中には変態を遂げなかった何匹かのアリジゴクが構えるすり鉢も残ったが、8月に入ると、そのすり鉢の合間にいつのまにやら小さな小さなすり鉢がぽつぽつと目に付くようになった。可愛らしいその小さなすり鉢が日増しに増えて、これもまたうれしく感じたのだが…
もう何回となく書いたことではあるけれども、繰り返して書くと、ウスバカゲロウは短命であると儚まれがちであるのだが、実際に短いといえるのは成虫の期間に限った話であって、一生の長さがさほどに短いわけでもない。また、昆虫の成虫というのは必ずしもその生物の完成型といっていいものだろうか。土の中で過す幼生期の姿こそが、この昆虫たちの本質であって、成虫は生殖活動のためだけの特殊形態だとしたって、決しておかしなことではないだろう。そうだとすれば、土の中とはいえ本質である幼生期の期間の長さを考えれば、1年以内の一生しかないことなどザラにある昆虫の中にあっては、むしろその命は長い方というべきである。
しかしである、ふだんはそうやってドライに即物的に考えているのだが、夕暮れに小さなすり鉢をじっと見ていたら、少し違う思いに陥った。
この新しく出現したアリジゴクの小さなすり鉢は、6月に巣立ったウスバカゲロウが直後に生殖活動をした結果なのであろうか。仮にそうだとしたら、ちょっとうれしくなりはしたが、その一面で生命の無常のようなものを感じたのである。
アリジゴクの活動は本当に辛抱強くエサとなる小虫の落下を待つばかりの受動的な生き方である。それをほとんど一生かけて継続し、最終的にはほんのひと時だけ子孫の存続のために成虫となって生殖する。そして子孫は再び親とまったく同じように、その一生を辛抱強い地中生活で過ごすわけである。さらにその繰り返しが何百何千世代と続いてゆく。
この生き物が生命活動を持っていることに、果たしてどんな意味があるのだろうか。いや、地球では最も高等な活動を成し得る生物であるはずの人間だって、その点、たいした変わりはない。違うとすれば、プラスアルファとして、子孫に対し、記録と造作という身体以外のものごとを伝え残す術を種々持っていることくらいである。それが大きな違いだといえば大きいともいえるが、例えば宇宙全体としてというような、より大きな意味を考えたら、それがいかほどの価値を持つものなのだろうか。
そうはいったところで、私は生命に悲観しているわけではない、果たして生命という不思議なものは、どのような意味を持つものか、なにか目的というものがあって存在しているのではなかろうか、それとも、偶然発生してしまい漫然とそこに存在して、環境の影響を受けてたまたま変化(進化)しているだけなのだろうか、不思議がより一層不思議に感じられる思いに陥ったというまでのことである。
アリジゴクの新しく小さなすり鉢の数を数えてみると15ほどはあるようだ。これらの子アリジゴクがウスバカゲロウとして巣立ってゆく日までまた見守ってみようと思う。
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