« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

秋分の日

N20080921104035
~さすがヒガンバナ、彼岸の中日に満開~

彼岸の中日、秋分の日となって、歩く道々の風景がすっかり秋らしくなったと感じる。

秋分というのは、ご承知のように昼夜等分の日、太陽が天の赤道を北から南へ横切って行く日であって、暦の上で重要な日である。

しかし、暦といえば、みなさんはこうは思わないだろうか、秋分は秋のど真ん中というけれど、秋なんて始まったばかりじゃないかと。

日本の暦は、何ともせっかちすぎると思うのだ。
つい先日まで、ジリジリとアブラゼミが昼に大合唱し、真の盛りを過ぎたとはいえ、暑さは真夏とほとんど変わらなかったのだが、今はコオロギなどの虫たちの涼しげな声が聞こえる夜は、すっかり凌ぎやすくなった。
様々な部分で、ああ、秋が始まったなあというべき環境が整ったのはほんのこの数日だと言えるのではないか。

日本の暦は、春分、夏至、秋分、冬至という、太陽の位置の基準日を季節の真ん中におく。しかし、これが季節感と暦の不釣合いの元である。確かに、そのようにすれば、太陽の南中高度(お昼ごろの見た目の高さ)と、これにともなう日光の明るさは、これをグラフにでも描けば季節とキッチリマッチする関係になるだろう。

しかし、季節=自然環境は、主に気温に支配されて移ろうというべきであるし、その気温(一日の平均気温)というものは、太陽に温められて徐々に温まり、また、冷えて行くのも遅れてゆくのであって、結局、太陽の位置基準からみると、一月半くらいピークが遅れるのである。

このため、暦と実際の感覚との差異をみると、暑さの絶頂時にいきなり秋が始まってしまい(8月の立秋)、秋らしくなったなあと思ったら、それはもう秋の真ん中で(9月の秋分)、もう一月半すれば立冬だ。

俳句など、風情を求める世界では、少しづつ密かに始まる次の季節を探すことも、大きな楽しみの一つといえるだろうけれど、私の感覚としてはどうも馴染まない。

洋の東西の好き嫌いではなく、暦については、西洋暦のように、春分、夏至、秋分、冬至という、太陽の位置の基準日を、季節の真ん中ではなく、初めとし、秋分は秋の始まりとしてもらいたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カマキリの偽瞳孔

F2008_0912_115759
~小さな黒目はかわいいけれど~

カマキリの目は、なかなかいかしている。
カマキリを間近で見慣れている方はよくご存知だと思うが、大きな目の中に人の目の黒目と似たように小さな黒い点があって、その点がこちらを向いて、注意深く様子を窺っているように見えるのである。

しかし、昆虫であるカマキリの目は、人とは違い複眼であり、小さな目が球状に集まっているその全部が目であって、人の黒目(瞳孔)と同じようにそこだけが見えている場所ということではない。

実はこのカマキリの目の中の黒い点は、それ自身の構造的なものなのではなく、カマキリの目を観察しているこちら側が、球状に集まった数ある複眼の中でそのあたりだけ奥まで見通せるという角度の部分であり、その結果として、光が返ってこないから黒っぽく見えるというわけで、単に観察者側にだけ見える見かけ上のものに過ぎないのである。

そして、この黒点を偽瞳孔といい、その他の部分は、観察者の目からは奥まで見えないので、個々の目の内部の反射光で明るく見えているに過ぎないのである。

試しに、こちらを向いているカマキリの偽瞳孔を観察しつつ、同時に手に持った鏡で違う角度からカマキリを覗き込めば、そこにもまた、鏡を通してこちらを窺っていると感じる位置、つまりは実像とは別の場所に偽瞳孔を見つけられるだろう。

ただし、カマキリの目には、これとは別に、夜になると複眼全体が黒っぽくなり、これによって総合的な集光力を上げられるという面白い能力も持っているから、なかなか侮れないところもある。

偽瞳孔は、トンボやバッタなどにも見られるのであるが、カマキリのものとは若干状態は違う。カマキリの偽瞳孔は、本当の瞳孔を見慣れている人間にとって、人の目の瞳孔とかなり似ているから、それがいつもこちらを見ているように感じる分、ちょっとした親しみなど感じてしまうものである。仕組みがどうであっても、この偽瞳孔のために、カマキリの表情を豊かに見せていることは間違いない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »