モウセンゴケ(2)

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~湿原のレクイエム~

夏はやっぱり山で涼しく過ごすのがいい。この夏は、あまり夏らしい天候が少なかったが、それでもやはり、蒸し暑いことには変わらなかった。

この夏訪れた山の湿原は、既に次の季節へと変わろうとしている様相のなか、真っ赤に色付いたモウセンゴケの群落を見ることができた。モウセンゴケは、その葉に粘着性のある液を出して、そこにとまった昆虫を捕らえて消化し、栄養素としてしまう食虫植物の一種である。

モウセンゴケの群落を観察していて、ちょっとした悲哀を目にした。

湿原にはたくさんのイトトンボが飛交っていたが、モウセンゴケにこのイトトンボが捕らえられていたのである。イトトンボは、捕捉されてからそう時間がたっていないとみえて、まだまだ生きている。しかも、よくよく見ると、イトトンボは1匹ではなく、雌雄のペアだったのである。

産卵途上の事故であったのだろう。2匹はそれぞれまだ脚は十分に動くものの、表面積のある翅が粘液に捕らえられていて、それぞれ別の方向を向いたまま、どうしようも動けなくなっていた。感情を持っているとは思われないトンボのこととはいえ、ペアが、ほぼ同じところで捕まりながら、最後まで一緒になれないその姿を見ると、なんだか、とってもかわいそうなことに感じた。
次世代へ命を繋ぐ共同作業の途上での事態であることが、一層残念であったように感じさせた。

ドライに見れば、自然界の中の自然な摂理というものに過ぎないのであるが。

実はこのモウセンゴケ、ほぼ平地に位置する私の自宅近くでも、育成環境がないということはなく、山の湿原で見られるような大きな群生はなかなかないが、比較的身近な食虫植物である。

モウセンゴケの葉は、1cm前後の小さなものであるので、その様子を詳しく観察するには
、腰を落として間近でじっくり見る必要がある。
葉の周囲を粘液の滴玉が覆うが、そんなにたくさんの昆虫がついているということはない。モウセンゴケ自体は、根はあまり発達しないが、ちゃんと葉緑素を持っていて光合成を行うので、捕らえた昆虫から吸収する栄養素というのは、補助的なものと考えてもいいのだと思う。

鑑賞用に流通する多くの食虫植物も、室内などで育成する際に、あえて昆虫を与えたりすることをしなくても、十分に育つ。
それでも、湿原などの土地で、昆虫を捕らえて消化するという、極めて特徴的なシステムを持っていることには、それなりの意味はあるのだろう。
そして、そのシステムの網にイトトンボのペアが掛かってしまったということにも。

モウセンゴケ(1)

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近距離双眼鏡(ペンタックス・パピリオ)

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~両眼視認できるマクロレンズのよう~

手持ち用の双眼鏡というのは、これまでも鳥や星などを見るのに時折使ってきた。7倍とか10倍というふうに、たいした拡大率ではないが、両眼で見ることができるというのは、片目で見る望遠鏡(単眼鏡)と比べると、視界の安定感に雲泥の差があり、また、拡大率の高い焦点距離が長い双眼鏡や望遠鏡に比べるとずっとコンパクトであるから、その拡大率に適した対象物ならば、気軽に手持ちで観察できるという使い勝手において、他の機材を大きく凌ぐ(念のため、手持ちの高倍率双眼鏡というのは、まったく役に立たないので注意。)。

通常、双眼鏡は基本的に遠方の対象物の拡大鏡である。この点は望遠鏡も同じである。
ところが、最近、こんな常識を破る商品が数年前(2004年11月)から登場していたことに遅ればせながら気づいた。それは、近距離を観察することを主眼に入れた近距離双眼鏡(ペンタックス・パピリオ)というものである。手も届くような近距離であれば、ぐっと生で近寄って裸眼で十分見れるだろうなどと思うかもしれないが、昆虫や植物の繊細な構造は、ちょっと寄ったくらいでは判らないほどつくりが細かい。
まして、昆虫などは、そんなに寄ったら当然逃げてしまうわけで、実際には裸眼ではあまり近接観察できる代物ではないのである。

この双眼鏡は、拡大率6.5倍の口径21mmというスペックであるが、近接観察という目的によくあった倍率にとても好感が持てる。これよりも拡大して手振れする倍率となっては、安定して楽しい観察はできないだろう。また、コンパクトな単眼鏡の中には、もっと近くまで寄ることができるものが存在することは知っているが、片目で観察するこちらにはそれほどの魅力は感じないのである。

迷うことなく直ちにこの近距離双眼鏡購入し。届いた双眼鏡を早速覗き込んでみた。自分を満足させることは間違いないだろうと確信していたのだが、これがまた、実物は想像していた以上のすばらしい視界を見せてくれた。

ちょっと見た感じは、ボケ味の利いて主体を美しく見せるマクロレンズの描写のようでもあるが、何しろ双眼である。カメラのファインダー越しに片目で覗いていたマクロの世界が、ステレオで楽しめるのである。そして、その効果は両目だからじっくり見ることができ目の疲れもなく、立体感が片目観察とはまったく違う。

例えばクロオオアリなら、カブトムシのように見え、あまりかがみ込んで見れない水中のオタマジャクシもフナのように大きい、草花を覗き込めば、花粉まではっきり見えるし、気付かなかった微小な昆虫が付いていることに気付いたりする。ともかく、ずっと見ていても飽きない。

この近距離双眼鏡は、観察対象物まで50cmまで近接しても焦点が合う。通常の双眼鏡の近接合焦距離は、近いものでもせいぜい3mくらいだろうか、近くを見るためには、レンズの焦点を近距離に合わすことが必要であるのは当然であるが、そればかりでなく、人の目で例えていえば寄り目のように見る方向がそれぞれ内側を向く仕組みも備えていないと、右目と左目に見えるものが左右に離れた別々のものになってしまう。
そのへんも、うまく機構を組み込んであって、焦点を近くにするにしたがい光軸が焦点にあわせて内側に向くようになっている。

もちろん、カメラのマクロレンズと同様に、近接だけではなく無限遠まで焦点は合うので、まったく通常の双眼鏡として、野鳥や星空の観察など万能に使えるわけである。また、その価額が1万円少々というローレンジであるのはたいへんありがたい。価格なりの光学系ではあるのだろうが、実物を覗いた印象では、問題となるような収差が目立つというようなことはなく、観察に十分なものであって、コストパフォーマンスはすこぶるいいと感じた。

すっかり商品レビューそのものとなってしまったが、昆虫などの小さな生物や野草など自然観察派の方には絶対お勧めであるので、どうしても紹介したかった次第である。


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※これは、実際の視界ではなくイメージとして作成したもの。実際は、遠方で300mmレンズ、近接は等倍マクロレンズの最近接時に対し3/4程度だろうか(いずれも35mm換算)。カメラ三脚用の三脚座も付いていて、三脚装着前提なら、もう一つの高倍率モデル8.5倍21mmもいいかもしれないが、手持ちなら6.5倍程度が適度だろう。

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海鳴り

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~打ち寄せる波涛の轟き~

海鳴りを聴いたことがあるだろうか。
海鳴りというのは、単に海辺で聴こえてくる波の音であるとか、いわゆる潮騒といわれるものとは違う。

5月中旬のある晩、いつものように、窓を開いて外の様子を伺った後に就寝しようという時間であったが、どうもいつもと空気が違うのが気になった。夜の闇全体が重い低音の周波に包まれているような気がするのである。

初めは、航空機がこのような時間帯だというのにやけに大きな音を響かせて飛んでいるものだなあと思ったが、しばしの後、いや、この地の底から止めどなく湧きあがるような轟きは、忘れかけていたが、海の響きだということを思いだした。

我が家から海までは直線で5kmちょっとある。それに、家は台地のど真ん中にあって、途中には小さな標高差とはいえ、音の伝播には十分障害となろう起伏があるから、普通は海の音など聞こえようもない。しかし、この日は、遥か沖にある台風の影響で、海上は荒れているのだろう。そして、上層の空気と低層の空気の温度差が大きいなどによる、なにかしら音が遠方に伝わりやすい条件は整っていたのだと思う。

ともかく、その晩聞こえてきた、得体の知れない唸り声のような海鳴りは、ずいぶん久しぶりに聴いたもののような気がした。

私が育った家は、今の家より少しは海に近かったし、そのまま海岸まで続く平野部にあったが、それでも直線で4km少々はあったから、決して海辺とか港町とかいう環境ではないし、やはり、普段は海の音など聞こえる場所ではない。

私が少年期の夏の夜、当時はエアコンなどなかったから、網戸ごしとか、更に時代を遡ればカヤを吊り、開け放った戸の外から流れ込む僅かばかりではあってもひんやりとしたそよ風に涼を求めたものだった。

そうやって、息を潜めていると、様々な音色が聞こえてきた。鳴く虫の種類で、同じ夏といえども、少しづつ季節が流れていくのも感じられた。

7月末ごろ以降になると、海鳴りがよく聞こえるようになったような気がする。やはり、遥か南の海上の台風の影響などで波が高くなるのだろうか。寝つく前に、母からあれは土用波の音だと聴かされ、土用波とは何だろう。普通の波とは何か違うのだろうかと、巨大なうねりに荒れる海の姿を遠く想像したものだった。

当時の自分自身が多感な少年期だったということもあるだろうが、そればかりでなく、家族で枕を並べて誰かが何々の音が聞こえるといっては、みなで聞こえてくる些細な音にじっと耳を傾け、敏感に季節の流れに思いを馳せるというように、今より、もっと肌身で自然を感じ取ることのできる環境がある時代だったように思う。

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晴天の旅行者(ツチグリ-その2)

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~繁殖適地を求めて~

ちょっと変り種のきのこであるツチグリが、「晴天の旅行者」と洒落すぎた名前で呼ばれることを昨日書いたばかりである(→ツチグリ)。しかし、昨日の朝に見かけたツチグリのうち1つを庭に転がしておいたところ、今日になってそれを眺めていて、おや?と考えさせられたことがあったので、ちょっとだけ追加して続きを書いておく。

それは、このきのこが、このように乾湿によって丸くなったり開いたりして移動するのには、より主体性があるのではないだろうかということである。

昨日まで理解していたことは、このきのこは、胞子が風に乗りやすい晴れた日に自ら胞子を吐き出すという術を持ち、また、自らの本体さえもときおり移動して繁殖地を広げる能力も備えた、二重の繁殖システムを持っているということだった。

けれども、昨日、庭のやや日陰となる木の下に転がしておいたツチグリが、今日は小雨模様の湿った天候にもかかわらず、丸くなって転がりだしていた。おや、これは晴れ、雨というよりも、乾燥地での繁殖を嫌っているのか?という疑問が湧いた。

昨日ツチグリを転がしておいたところは、少し日陰になる所が無難かなという思いもあって木の下にしたのだが、確かにカラカラではないものの雨が降り込まない。そして、今日は小雨の天候であるのに、湿ることなく写真のように丸くなり始め転がりだそうとしている。

今日の様子を見て思うに、このきのこは、胞子を出す場所として、できるだけ湿り気を得やすい場所を選んで、より主体性をもって移動しているという可能性も十分あるなあということ(もちろん、結果的な話であって、意思でそうしているというのではないのだが。)。

つまり、上記の二重の繁殖システムは、単純な二重ではなく、湿り気のあるところへ自ら移動し、そこで胞子を出すというように、2つの能力が相関関係を持って機能するより完成されたシステムなのかもしれないなと、独りで感心してしまった次第である。

庭にはアミガサタケも顔を見せていた。

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ツチグリ

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~晴天の旅行者「毒ガスふぅふぅ」~

なたね梅雨ともいわれる春の長雨が続く。芽吹き始めた植物たちは、この雨の間にみるみる育っている。ほんの少しだけの日数目を離していただけであるのに、野に出てみると驚くほど様子が変わっていたりするものである。

さて、そんなこの時期であるが、今朝散策に出た野でツチグリの姿を見つけた。ツチグリは主に夏から秋に、山道や林道の際や崖などによく見られるきのこの一種であるが、この春に適当な気温があり長雨もあって環境が整っていたのだろう。

小さなうちは、黒っぽい球体であり、成熟してくると二重構造となっている外皮の部分が、上から放射状に裂けて星形に開かれ、中に薄皮に包まれた球状の袋が現れる。

球状の袋はてっぺんに穴があり、中には成熟するとこげ茶色になる胞子が出来るが、この状態での星形の外皮はなかなか機能的である。

この外皮は、湿っていると開き、乾くと閉じて球状となる。このため、ツチグリの英名は「星形の湿度計」という意味の「Astraeus hygrometricus」というくらいであるが、それだけでなく、閉じたときに球状の袋を押しつぶすために、袋の中の胞子を袋のてっぺんの穴から飛散させるという、能動的な仕組みになっているのである。

いたずらに指で球状の袋をつつくと、まるでガスでも吐き出すように胞子を吐き出すのが見ていて楽しく、我が家の子供たちが小さな頃には、ツチグリを見かけるたびにつんつんとつついて遊び、ツチグリのことを「毒ガスふぅふぅ」と呼んでいたのが思い出される。いや、我が家では、いまやそれが標準名となってしまったのであるが・・・

さらに面白いのは、晴れて乾いた時に外皮が閉じると、全体として球状となるため、強めに風が吹けば地上を転がって自身が移動するのである。そして移動先で湿気を帯びれば、またそこで根を下ろすかのように、星形に外皮を開いて安定する。

このように晴れた日になると移動する様子から、ツチグリのことを「晴天の旅行者」とも呼ぶようである。ロマンチックな名であるが、ちょっと洒落すぎな感もある。ほかには柿の実が地にあるようにも見えるためか、土柿(ツチガキ)の別名もある。

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畦塗りと蛙の声と

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~コロコロという声はどこから聞こえる?~

わが家の家のすぐ目の前から、道を少しだけ下ったところに田んぼがあり、普段から周辺で季節の写真を撮ることも多いので、田とのなじみは四季を通してとても深いものがある。

桜が散るころ、そろそろ晩春といえるこの季節になると、もう田には水が張られているが、その水を漏らさぬように、そして、通路としても使えるように、あぜ道は毎春きっちりと作り直されている。

畦はご存知のとおり、粘土質ぎみの田の土をコンクリートよろしく塗りつけ固めて作られるのだが、近年ではトラクターに装着して使用する畦塗機なるものがあって、旧来のように人の手による鍬での作業ということは少なくなったようである。

それでも、いつもの田を歩いていて、真新しくなった畦を見れば、春になったなあと強く感じさせられるし、それにもまして、畦が新しくなると、いよいよこの畦の周囲を中心に蛙たちの活動が急に著しくなってくるのが楽しみである。

「畦」と「蛙」の字は、つくりが同じく「圭」であり、この関係は、「圭」が土盛などを表す字であるようなので(昔の中国で「三角に盛る」ことを圭と表すらしい)、やはり、あぜとカエルが関係ありと考えるのが自然と思われるものの、はっきりはしない。しかし、少なくとも現実のあぜとカエルは大いに関係がある。

今年も、田んぼの土はひっくり返されて、畦塗りを終えたばかりの新しい畦の周辺からは「クワックワッ」というアマガエルと「コロロコロロ」というシュレーゲルアオガエルたちの声が、風に心地よく流れ始めた。

シュレーゲルアオガエル

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八重山を歩く(8) ハイビスカス

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~島じゅうこの花で溢れている~

情熱的な赤が南国らしさを演出し、いやおうなく、トロピカルな環境の真っ只中にいることを認識させてくれるこのハイビスカス。

空の青、海の青との対比が素晴らしく、
熱帯植物園などの人工的環境で局所的に育成されているのとは違って、そこかしこの路地など、どこでも見かけることができ、周辺環境としっかりとした一体感を持って咲いていた。

このハイビスカス、標準和名で正式にはブッソウゲ(仏桑花や扶桑花などと書く)といい、ハイ・リゾートな雰囲気から急にイメージが変わるが、身近な芙蓉などと同じ仲間の花であるし、ハイビスカスというのは、芙蓉の仲間の総称であるらしく、よく見てみれば、フヨウやムクゲと同じ仲間の花であることはよく分かる。とはいえ、やはり、現地で珊瑚礁の明るく青い海をバックに赤々としたハイビスカスを見ると、ブッソウゲの名が少々の違和感を持つことは拭えない。

原産地はよくわかってはいないようだが、どうも、アフリカ系、東南アジア系の芙蓉の雑種であるかインド洋の島原産というのが有力なようである。おそらく、一般にはハワイやグアムといった太平洋の島のイメージが強いのではないかとも思われるが、それらの島にも、そして八重山にも、後に渡ってきたものであって、どちらが本場ということもないようである。

いずれにしても、南国らしい南国の花であることには間違いない。

※8話続けたこの「八重山を歩く」は、ここでひとまず終了しておきます。

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八重山を歩く(7) 南十字星

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~港の星はよく見えたけれど・・・~

珊瑚礁に囲まれて波静かな渚は、波の音さえほとんどしない。もちろん、実際には、いろいろな音が聞こえているが、なにぶん、常時において波は荒く風の強い九十九里の海を見なれて育っている自分には、そのレベルはもはや無音にさえ感じる。

日が落ちて、静かな渚に闇が降りても独特の雰囲気がある。そして、見上げれば星空の様子が違う。星空が違うといえば、人里離れた地や山でときおり出あうことのある、信じられないほどの数の星が見える暗い空も確かに見慣れたものと大きく違うのであるが、この南に遠く離れた島では、星の見える位置そのものがかなり違うことに驚かされる。

北半球では、初めから天の北極まで見えているから、北に行った場合には、たとえどんなに北に行っても、自分の住まいから見ることのない星が、新たに見えるようにはならないが、逆に南に行った場合には、南に行った分だけ、天の南極に近い星が見えるようになってくる。

石垣島は、日本の最南端に近い緯度にある。自分の住まいからでは南の地平線の向こうから絶対に顔を出すことのなかった星達が、ここでなら見えるというのは魅力である。

さて、実際の星空の方はどうだったかといえば、南十字座の4つの星、ケンタウルス座のα星とβ星といった、南の星空でも特に代表的な星達が、この時期の宵に観望の好機となる。

そして、石垣滞在中は、日中の間ずっと雲一つないような晴天ではあった。そうなれば、これはもう、さぞかしキレイな星空が見えてもよさそうであるが、現実は、そんなに甘くない。

晴天のように見える青空は、実際には、空全体に薄っすらと雲が掛かったようなかなり霞んだ空であったため、太陽はともかく、星の見え加減には大きな影響があった。

霞空では空の低いところほど光が通らない。いくら、石垣が南にあるとはいっても、前記のように本土では見れない星々の高度はかなり南に低く、その霞んだ低空に、南十字星の姿を見つけることは残念ながらかなわなかった。

八重山は、平年なら雨季である。せっかくの晴天なので、夕日が海に沈むのを見に行ったのだが、太陽でさえも、雲はないのに水平線に達する前に光が届かなくなってしまうくらいの透明度であったから、低空に星が見えなかったとしてもしかたあるまい。

このようなわけで、星空の方は、いつもとは少々位置が変わって見える馴染みある星々が天頂付近に見えたのがせいぜいで、かなりいいところまで条件が揃いつつも、南の星との出会いは、今一歩で果たせなかったのは残念だった。
(つづく)

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八重山を歩く(6) 珊瑚礁と津波石

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~珊瑚礁を望む海岸に点在する大石~

石垣島といえば、やはり島を取り巻く珊瑚礁の海であり、島の周囲をひととおり見て回った。さすがに海の色はすばらしい。その深度による蒼のグラデュエーションの妙は、自分の地元の海では絶対に味わうことのできないものである。
岩礁は概ね古い珊瑚礁の隆起したもの、砂浜の砂は鉱物ではなく珊瑚や貝などが細かく砕けた生物質のものがほとんどである。

珊瑚礁は、海に入らなければ素晴らしい姿が見えてこないのであるが、今回は残念ながらそのような時間はなく、水際から、遠く外礁に砕ける白波や、波のないエメラルドの礁湖を眺めるだけであった。

石垣で訪れた海岸の一つに白保の海岸があるが、この海岸の珊瑚は特に美しいとされる。しかし、ここに訪れて自分の目を特に引き付けたのは、海の中のものに対してではなかった。

この海岸は、珊瑚礁由来の石灰石でできた広く平坦な岩浜であるが、この海岸のところどころに高さ2~3m程度の大石がゴロリと転がっている。その石自体は、おそらく古い珊瑚で出来たものと思われるし、海岸に大石があるからといっても、それだけではごく普通のことにすぎない。

しかし、まっ平な石灰岩盤上にある大石は、その石灰岩盤とは繋がっているわけでなく、また、その質も少々違うように見え、上下の関連性はないようである。みたところ、どう考えても、海岸が形成された後で、どこか別の場所から運ばれてきたものというほかなく、それもよく見るとあたり一帯に数限りなく黒っぽく見える大石が転がっていて、その景観は私には奇怪きわまりなく見えた。

初めは、この一帯の海が、普段は珊瑚の外礁に守られ、著しく静かな海であるとしても、南の島のことであるから、さぞかし台風はすさまじく、その波浪が運んできた石であろうかとも考えた。しかし、いくら台風がすさまじくても、台風の波浪で運ぶ石にしては少々大きすぎやしないかと思われた。

では、もともとあった岩石の特に硬質な部分だけが残ったものであるのか。あまり現実的ではないものの、そういう考えも浮かぶが、やはり、石自体がどこか別の場所から来ているように見える。

そして、もう一つの原因として考えられるものとして、その頻度は低いものの、ひとたび発生したならば、このような石を運ぶ力を十分に持つ現象がある。そう、想像を超える水の流れを発生させる津波である。

そして、この話は気になっていたので、後日、帰宅してから調べると、なるほど大きな津波が過去にあったということがわかった。それも飛び切りでかいやつである。1771年と時代はだいぶ遡るが明和の大津波とも八重地震津波ともいわれる津波で、なんと高さが50mから場所によって90m近いという、想像を絶する日本最大の津波の記録である。

現地では気付かなかったが、海岸よりもずっと内陸の高台に、この津波で打ち上げられたという更に大きな「津波石」と呼ばれる石があるらしい。また、石垣島の東側海岸はこの津波で壊滅的な被害があったということである。

海岸に点在する・・・いや、点在というにはあまりに多い奇異な大石は、おそらく、その津波石と同様の原因でそこにあるのではなかろうか。
絶対的な正解かどうかは判らないが、現地で不思議に思った謎がひとまず解けてすっきりした。
(つづく)

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八重山を歩く(5) カラスアゲハとカラス

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~青さが引き立つ~

前回、八重山の蝶としながらマダラチョウの話だけで終わってしまったが、もちろんマダラチョウのほかにも様々な蝶がいる、一つ一つよくみるとみな目新しい。そもそも、蝶だけでなく、生き物全般にわたって、普段、本土で見かけている種とまったく同じ種の生き物を捜す方が難しいくらいで、動植物の構成が総入替えとなっている感じである。
とはいっても、まったく違う種ばかりではなく、本土の種の亜種も多い。

山の入口の木陰にオレンジの目立つ花が咲いていた。この花を眺めていると、大きなカラスアゲハがやってきた。それまでの短時間のうちにも、カラスアゲハは各所で見掛けたが、それはやや遠目からであった。

しかし、間近で見ると、どうもいつも見なれたカラスアゲハとは違う。また林道でよく見る、より美しさの増したミヤマカラスアゲハとも違う。本土のカラスアゲハよりやや小ぶりで派手ではない感じだが、後翅には、まるでこの島の珊瑚の海以上に青いコバルトブルーの光を放ち、全体にエメラルドグリーンの星を散りばめたような輝きを持った美しいカラスアゲハである。

この蝶はカラスアゲハの亜種のヤエヤマカラスアゲハで、八重山特産のようである。沖縄本島周辺のカラスアゲハもオキナワカラスアゲハという別の亜種とされるようである。

ところで、少々話がはずれるのだが、同じくカラスでも鳥のほうの烏。もちろん、これがまた同じようで違う。本土と同じようなところに、同じように出没するのではあるが、近くで見ると、どうもやけに小さいことに気づく。

小さめなハシボソガラスかと思ったが、これはオサハシブトガラスという別亜種である。こちらは、蝶のように、エメラルドの光沢がどうのこうのというようなことはなく、大きさが違う程度ではあるが、一見、同じに見えるあたりまえのような鳥であるのに、よく見たら違うのでびっくりした。

八重山では、このように様々な生き物が微妙に違っている。
やはり、小笠原や八重山は、同じ日本でも動植物の相でみると、本土と同一エリアではないのだなあとはっきり感じる。
(つづく)

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