近距離双眼鏡(ペンタックス・パピリオ)

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~両眼視認できるマクロレンズのよう~

手持ち用の双眼鏡というのは、これまでも鳥や星などを見るのに時折使ってきた。7倍とか10倍というふうに、たいした拡大率ではないが、両眼で見ることができるというのは、片目で見る望遠鏡(単眼鏡)と比べると、視界の安定感に雲泥の差があり、また、拡大率の高い焦点距離が長い双眼鏡や望遠鏡に比べるとずっとコンパクトであるから、その拡大率に適した対象物ならば、気軽に手持ちで観察できるという使い勝手において、他の機材を大きく凌ぐ(念のため、手持ちの高倍率双眼鏡というのは、まったく役に立たないので注意。)。

通常、双眼鏡は基本的に遠方の対象物の拡大鏡である。この点は望遠鏡も同じである。
ところが、最近、こんな常識を破る商品が数年前(2004年11月)から登場していたことに遅ればせながら気づいた。それは、近距離を観察することを主眼に入れた近距離双眼鏡(ペンタックス・パピリオ)というものである。手も届くような近距離であれば、ぐっと生で近寄って裸眼で十分見れるだろうなどと思うかもしれないが、昆虫や植物の繊細な構造は、ちょっと寄ったくらいでは判らないほどつくりが細かい。
まして、昆虫などは、そんなに寄ったら当然逃げてしまうわけで、実際には裸眼ではあまり近接観察できる代物ではないのである。

この双眼鏡は、拡大率6.5倍の口径21mmというスペックであるが、近接観察という目的によくあった倍率にとても好感が持てる。これよりも拡大して手振れする倍率となっては、安定して楽しい観察はできないだろう。また、コンパクトな単眼鏡の中には、もっと近くまで寄ることができるものが存在することは知っているが、片目で観察するこちらにはそれほどの魅力は感じないのである。

迷うことなく直ちにこの近距離双眼鏡購入し。届いた双眼鏡を早速覗き込んでみた。自分を満足させることは間違いないだろうと確信していたのだが、これがまた、実物は想像していた以上のすばらしい視界を見せてくれた。

ちょっと見た感じは、ボケ味の利いて主体を美しく見せるマクロレンズの描写のようでもあるが、何しろ双眼である。カメラのファインダー越しに片目で覗いていたマクロの世界が、ステレオで楽しめるのである。そして、その効果は両目だからじっくり見ることができ目の疲れもなく、立体感が片目観察とはまったく違う。

例えばクロオオアリなら、カブトムシのように見え、あまりかがみ込んで見れない水中のオタマジャクシもフナのように大きい、草花を覗き込めば、花粉まではっきり見えるし、気付かなかった微小な昆虫が付いていることに気付いたりする。ともかく、ずっと見ていても飽きない。

この近距離双眼鏡は、観察対象物まで50cmまで近接しても焦点が合う。通常の双眼鏡の近接合焦距離は、近いものでもせいぜい3mくらいだろうか、近くを見るためには、レンズの焦点を近距離に合わすことが必要であるのは当然であるが、そればかりでなく、人の目で例えていえば寄り目のように見る方向がそれぞれ内側を向く仕組みも備えていないと、右目と左目に見えるものが左右に離れた別々のものになってしまう。
そのへんも、うまく機構を組み込んであって、焦点を近くにするにしたがい光軸が焦点にあわせて内側に向くようになっている。

もちろん、カメラのマクロレンズと同様に、近接だけではなく無限遠まで焦点は合うので、まったく通常の双眼鏡として、野鳥や星空の観察など万能に使えるわけである。また、その価額が1万円少々というローレンジであるのはたいへんありがたい。価格なりの光学系ではあるのだろうが、実物を覗いた印象では、問題となるような収差が目立つというようなことはなく、観察に十分なものであって、コストパフォーマンスはすこぶるいいと感じた。

すっかり商品レビューそのものとなってしまったが、昆虫などの小さな生物や野草など自然観察派の方には絶対お勧めであるので、どうしても紹介したかった次第である。


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※これは、実際の視界ではなくイメージとして作成したもの。実際は、遠方で300mmレンズ、近接は等倍マクロレンズの最近接時に対し3/4程度だろうか(いずれも35mm換算)。カメラ三脚用の三脚座も付いていて、三脚装着前提なら、もう一つの高倍率モデル8.5倍21mmもいいかもしれないが、手持ちなら6.5倍程度が適度だろう。

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海鳴り

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~打ち寄せる波涛の轟き~

海鳴りを聴いたことがあるだろうか。
海鳴りというのは、単に海辺で聴こえてくる波の音であるとか、いわゆる潮騒といわれるものとは違う。

5月中旬のある晩、いつものように、窓を開いて外の様子を伺った後に就寝しようという時間であったが、どうもいつもと空気が違うのが気になった。夜の闇全体が重い低音の周波に包まれているような気がするのである。

初めは、航空機がこのような時間帯だというのにやけに大きな音を響かせて飛んでいるものだなあと思ったが、しばしの後、いや、この地の底から止めどなく湧きあがるような轟きは、忘れかけていたが、海の響きだということを思いだした。

我が家から海までは直線で5kmちょっとある。それに、家は台地のど真ん中にあって、途中には小さな標高差とはいえ、音の伝播には十分障害となろう起伏があるから、普通は海の音など聞こえようもない。しかし、この日は、遥か沖にある台風の影響で、海上は荒れているのだろう。そして、上層の空気と低層の空気の温度差が大きいなどによる、なにかしら音が遠方に伝わりやすい条件は整っていたのだと思う。

ともかく、その晩聞こえてきた、得体の知れない唸り声のような海鳴りは、ずいぶん久しぶりに聴いたもののような気がした。

私が育った家は、今の家より少しは海に近かったし、そのまま海岸まで続く平野部にあったが、それでも直線で4km少々はあったから、決して海辺とか港町とかいう環境ではないし、やはり、普段は海の音など聞こえる場所ではない。

私が少年期の夏の夜、当時はエアコンなどなかったから、網戸ごしとか、更に時代を遡ればカヤを吊り、開け放った戸の外から流れ込む僅かばかりではあってもひんやりとしたそよ風に涼を求めたものだった。

そうやって、息を潜めていると、様々な音色が聞こえてきた。鳴く虫の種類で、同じ夏といえども、少しづつ季節が流れていくのも感じられた。

7月末ごろ以降になると、海鳴りがよく聞こえるようになったような気がする。やはり、遥か南の海上の台風の影響などで波が高くなるのだろうか。寝つく前に、母からあれは土用波の音だと聴かされ、土用波とは何だろう。普通の波とは何か違うのだろうかと、巨大なうねりに荒れる海の姿を遠く想像したものだった。

当時の自分自身が多感な少年期だったということもあるだろうが、そればかりでなく、家族で枕を並べて誰かが何々の音が聞こえるといっては、みなで聞こえてくる些細な音にじっと耳を傾け、敏感に季節の流れに思いを馳せるというように、今より、もっと肌身で自然を感じ取ることのできる環境がある時代だったように思う。

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晴天の旅行者(ツチグリ-その2)

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~繁殖適地を求めて~

ちょっと変り種のきのこであるツチグリが、「晴天の旅行者」と洒落すぎた名前で呼ばれることを昨日書いたばかりである(→ツチグリ)。しかし、昨日の朝に見かけたツチグリのうち1つを庭に転がしておいたところ、今日になってそれを眺めていて、おや?と考えさせられたことがあったので、ちょっとだけ追加して続きを書いておく。

それは、このきのこが、このように乾湿によって丸くなったり開いたりして移動するのには、より主体性があるのではないだろうかということである。

昨日まで理解していたことは、このきのこは、胞子が風に乗りやすい晴れた日に自ら胞子を吐き出すという術を持ち、また、自らの本体さえもときおり移動して繁殖地を広げる能力も備えた、二重の繁殖システムを持っているということだった。

けれども、昨日、庭のやや日陰となる木の下に転がしておいたツチグリが、今日は小雨模様の湿った天候にもかかわらず、丸くなって転がりだしていた。おや、これは晴れ、雨というよりも、乾燥地での繁殖を嫌っているのか?という疑問が湧いた。

昨日ツチグリを転がしておいたところは、少し日陰になる所が無難かなという思いもあって木の下にしたのだが、確かにカラカラではないものの雨が降り込まない。そして、今日は小雨の天候であるのに、湿ることなく写真のように丸くなり始め転がりだそうとしている。

今日の様子を見て思うに、このきのこは、胞子を出す場所として、できるだけ湿り気を得やすい場所を選んで、より主体性をもって移動しているという可能性も十分あるなあということ(もちろん、結果的な話であって、意思でそうしているというのではないのだが。)。

つまり、上記の二重の繁殖システムは、単純な二重ではなく、湿り気のあるところへ自ら移動し、そこで胞子を出すというように、2つの能力が相関関係を持って機能するより完成されたシステムなのかもしれないなと、独りで感心してしまった次第である。

庭にはアミガサタケも顔を見せていた。

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ツチグリ

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~晴天の旅行者「毒ガスふぅふぅ」~

なたね梅雨ともいわれる春の長雨が続く。芽吹き始めた植物たちは、この雨の間にみるみる育っている。ほんの少しだけの日数目を離していただけであるのに、野に出てみると驚くほど様子が変わっていたりするものである。

さて、そんなこの時期であるが、今朝散策に出た野でツチグリの姿を見つけた。ツチグリは主に夏から秋に、山道や林道の際や崖などによく見られるきのこの一種であるが、この春に適当な気温があり長雨もあって環境が整っていたのだろう。

小さなうちは、黒っぽい球体であり、成熟してくると二重構造となっている外皮の部分が、上から放射状に裂けて星形に開かれ、中に薄皮に包まれた球状の袋が現れる。

球状の袋はてっぺんに穴があり、中には成熟するとこげ茶色になる胞子が出来るが、この状態での星形の外皮はなかなか機能的である。

この外皮は、湿っていると開き、乾くと閉じて球状となる。このため、ツチグリの英名は「星形の湿度計」という意味の「Astraeus hygrometricus」というくらいであるが、それだけでなく、閉じたときに球状の袋を押しつぶすために、袋の中の胞子を袋のてっぺんの穴から飛散させるという、能動的な仕組みになっているのである。

いたずらに指で球状の袋をつつくと、まるでガスでも吐き出すように胞子を吐き出すのが見ていて楽しく、我が家の子供たちが小さな頃には、ツチグリを見かけるたびにつんつんとつついて遊び、ツチグリのことを「毒ガスふぅふぅ」と呼んでいたのが思い出される。いや、我が家では、いまやそれが標準名となってしまったのであるが・・・

さらに面白いのは、晴れて乾いた時に外皮が閉じると、全体として球状となるため、強めに風が吹けば地上を転がって自身が移動するのである。そして移動先で湿気を帯びれば、またそこで根を下ろすかのように、星形に外皮を開いて安定する。

このように晴れた日になると移動する様子から、ツチグリのことを「晴天の旅行者」とも呼ぶようである。ロマンチックな名であるが、ちょっと洒落すぎな感もある。ほかには柿の実が地にあるようにも見えるためか、土柿(ツチガキ)の別名もある。

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畦塗りと蛙の声と

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~コロコロという声はどこから聞こえる?~

わが家の家のすぐ目の前から、道を少しだけ下ったところに田んぼがあり、普段から周辺で季節の写真を撮ることも多いので、田とのなじみは四季を通してとても深いものがある。

桜が散るころ、そろそろ晩春といえるこの季節になると、もう田には水が張られているが、その水を漏らさぬように、そして、通路としても使えるように、あぜ道は毎春きっちりと作り直されている。

畦はご存知のとおり、粘土質ぎみの田の土をコンクリートよろしく塗りつけ固めて作られるのだが、近年ではトラクターに装着して使用する畦塗機なるものがあって、旧来のように人の手による鍬での作業ということは少なくなったようである。

それでも、いつもの田を歩いていて、真新しくなった畦を見れば、春になったなあと強く感じさせられるし、それにもまして、畦が新しくなると、いよいよこの畦の周囲を中心に蛙たちの活動が急に著しくなってくるのが楽しみである。

「畦」と「蛙」の字は、つくりが同じく「圭」であり、この関係は、「圭」が土盛などを表す字であるようなので(昔の中国で「三角に盛る」ことを圭と表すらしい)、やはり、あぜとカエルが関係ありと考えるのが自然と思われるものの、はっきりはしない。しかし、少なくとも現実のあぜとカエルは大いに関係がある。

今年も、田んぼの土はひっくり返されて、畦塗りを終えたばかりの新しい畦の周辺からは「クワックワッ」というアマガエルと「コロロコロロ」というシュレーゲルアオガエルたちの声が、風に心地よく流れ始めた。

シュレーゲルアオガエル

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八重山を歩く(8) ハイビスカス

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~島じゅうこの花で溢れている~

情熱的な赤が南国らしさを演出し、いやおうなく、トロピカルな環境の真っ只中にいることを認識させてくれるこのハイビスカス。

空の青、海の青との対比が素晴らしく、
熱帯植物園などの人工的環境で局所的に育成されているのとは違って、そこかしこの路地など、どこでも見かけることができ、周辺環境としっかりとした一体感を持って咲いていた。

このハイビスカス、標準和名で正式にはブッソウゲ(仏桑花や扶桑花などと書く)といい、ハイ・リゾートな雰囲気から急にイメージが変わるが、身近な芙蓉などと同じ仲間の花であるし、ハイビスカスというのは、芙蓉の仲間の総称であるらしく、よく見てみれば、フヨウやムクゲと同じ仲間の花であることはよく分かる。とはいえ、やはり、現地で珊瑚礁の明るく青い海をバックに赤々としたハイビスカスを見ると、ブッソウゲの名が少々の違和感を持つことは拭えない。

原産地はよくわかってはいないようだが、どうも、アフリカ系、東南アジア系の芙蓉の雑種であるかインド洋の島原産というのが有力なようである。おそらく、一般にはハワイやグアムといった太平洋の島のイメージが強いのではないかとも思われるが、それらの島にも、そして八重山にも、後に渡ってきたものであって、どちらが本場ということもないようである。

いずれにしても、南国らしい南国の花であることには間違いない。

※8話続けたこの「八重山を歩く」は、ここでひとまず終了しておきます。

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八重山を歩く(7) 南十字星

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~港の星はよく見えたけれど・・・~

珊瑚礁に囲まれて波静かな渚は、波の音さえほとんどしない。もちろん、実際には、いろいろな音が聞こえているが、なにぶん、常時において波は荒く風の強い九十九里の海を見なれて育っている自分には、そのレベルはもはや無音にさえ感じる。

日が落ちて、静かな渚に闇が降りても独特の雰囲気がある。そして、見上げれば星空の様子が違う。星空が違うといえば、人里離れた地や山でときおり出あうことのある、信じられないほどの数の星が見える暗い空も確かに見慣れたものと大きく違うのであるが、この南に遠く離れた島では、星の見える位置そのものがかなり違うことに驚かされる。

北半球では、初めから天の北極まで見えているから、北に行った場合には、たとえどんなに北に行っても、自分の住まいから見ることのない星が、新たに見えるようにはならないが、逆に南に行った場合には、南に行った分だけ、天の南極に近い星が見えるようになってくる。

石垣島は、日本の最南端に近い緯度にある。自分の住まいからでは南の地平線の向こうから絶対に顔を出すことのなかった星達が、ここでなら見えるというのは魅力である。

さて、実際の星空の方はどうだったかといえば、南十字座の4つの星、ケンタウルス座のα星とβ星といった、南の星空でも特に代表的な星達が、この時期の宵に観望の好機となる。

そして、石垣滞在中は、日中の間ずっと雲一つないような晴天ではあった。そうなれば、これはもう、さぞかしキレイな星空が見えてもよさそうであるが、現実は、そんなに甘くない。

晴天のように見える青空は、実際には、空全体に薄っすらと雲が掛かったようなかなり霞んだ空であったため、太陽はともかく、星の見え加減には大きな影響があった。

霞空では空の低いところほど光が通らない。いくら、石垣が南にあるとはいっても、前記のように本土では見れない星々の高度はかなり南に低く、その霞んだ低空に、南十字星の姿を見つけることは残念ながらかなわなかった。

八重山は、平年なら雨季である。せっかくの晴天なので、夕日が海に沈むのを見に行ったのだが、太陽でさえも、雲はないのに水平線に達する前に光が届かなくなってしまうくらいの透明度であったから、低空に星が見えなかったとしてもしかたあるまい。

このようなわけで、星空の方は、いつもとは少々位置が変わって見える馴染みある星々が天頂付近に見えたのがせいぜいで、かなりいいところまで条件が揃いつつも、南の星との出会いは、今一歩で果たせなかったのは残念だった。
(つづく)

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八重山を歩く(6) 珊瑚礁と津波石

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~珊瑚礁を望む海岸に点在する大石~

石垣島といえば、やはり島を取り巻く珊瑚礁の海であり、島の周囲をひととおり見て回った。さすがに海の色はすばらしい。その深度による蒼のグラデュエーションの妙は、自分の地元の海では絶対に味わうことのできないものである。
岩礁は概ね古い珊瑚礁の隆起したもの、砂浜の砂は鉱物ではなく珊瑚や貝などが細かく砕けた生物質のものがほとんどである。

珊瑚礁は、海に入らなければ素晴らしい姿が見えてこないのであるが、今回は残念ながらそのような時間はなく、水際から、遠く外礁に砕ける白波や、波のないエメラルドの礁湖を眺めるだけであった。

石垣で訪れた海岸の一つに白保の海岸があるが、この海岸の珊瑚は特に美しいとされる。しかし、ここに訪れて自分の目を特に引き付けたのは、海の中のものに対してではなかった。

この海岸は、珊瑚礁由来の石灰石でできた広く平坦な岩浜であるが、この海岸のところどころに高さ2~3m程度の大石がゴロリと転がっている。その石自体は、おそらく古い珊瑚で出来たものと思われるし、海岸に大石があるからといっても、それだけではごく普通のことにすぎない。

しかし、まっ平な石灰岩盤上にある大石は、その石灰岩盤とは繋がっているわけでなく、また、その質も少々違うように見え、上下の関連性はないようである。みたところ、どう考えても、海岸が形成された後で、どこか別の場所から運ばれてきたものというほかなく、それもよく見るとあたり一帯に数限りなく黒っぽく見える大石が転がっていて、その景観は私には奇怪きわまりなく見えた。

初めは、この一帯の海が、普段は珊瑚の外礁に守られ、著しく静かな海であるとしても、南の島のことであるから、さぞかし台風はすさまじく、その波浪が運んできた石であろうかとも考えた。しかし、いくら台風がすさまじくても、台風の波浪で運ぶ石にしては少々大きすぎやしないかと思われた。

では、もともとあった岩石の特に硬質な部分だけが残ったものであるのか。あまり現実的ではないものの、そういう考えも浮かぶが、やはり、石自体がどこか別の場所から来ているように見える。

そして、もう一つの原因として考えられるものとして、その頻度は低いものの、ひとたび発生したならば、このような石を運ぶ力を十分に持つ現象がある。そう、想像を超える水の流れを発生させる津波である。

そして、この話は気になっていたので、後日、帰宅してから調べると、なるほど大きな津波が過去にあったということがわかった。それも飛び切りでかいやつである。1771年と時代はだいぶ遡るが明和の大津波とも八重地震津波ともいわれる津波で、なんと高さが50mから場所によって90m近いという、想像を絶する日本最大の津波の記録である。

現地では気付かなかったが、海岸よりもずっと内陸の高台に、この津波で打ち上げられたという更に大きな「津波石」と呼ばれる石があるらしい。また、石垣島の東側海岸はこの津波で壊滅的な被害があったということである。

海岸に点在する・・・いや、点在というにはあまりに多い奇異な大石は、おそらく、その津波石と同様の原因でそこにあるのではなかろうか。
絶対的な正解かどうかは判らないが、現地で不思議に思った謎がひとまず解けてすっきりした。
(つづく)

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八重山を歩く(5) カラスアゲハとカラス

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~青さが引き立つ~

前回、八重山の蝶としながらマダラチョウの話だけで終わってしまったが、もちろんマダラチョウのほかにも様々な蝶がいる、一つ一つよくみるとみな目新しい。そもそも、蝶だけでなく、生き物全般にわたって、普段、本土で見かけている種とまったく同じ種の生き物を捜す方が難しいくらいで、動植物の構成が総入替えとなっている感じである。
とはいっても、まったく違う種ばかりではなく、本土の種の亜種も多い。

山の入口の木陰にオレンジの目立つ花が咲いていた。この花を眺めていると、大きなカラスアゲハがやってきた。それまでの短時間のうちにも、カラスアゲハは各所で見掛けたが、それはやや遠目からであった。

しかし、間近で見ると、どうもいつも見なれたカラスアゲハとは違う。また林道でよく見る、より美しさの増したミヤマカラスアゲハとも違う。本土のカラスアゲハよりやや小ぶりで派手ではない感じだが、後翅には、まるでこの島の珊瑚の海以上に青いコバルトブルーの光を放ち、全体にエメラルドグリーンの星を散りばめたような輝きを持った美しいカラスアゲハである。

この蝶はカラスアゲハの亜種のヤエヤマカラスアゲハで、八重山特産のようである。沖縄本島周辺のカラスアゲハもオキナワカラスアゲハという別の亜種とされるようである。

ところで、少々話がはずれるのだが、同じくカラスでも鳥のほうの烏。もちろん、これがまた同じようで違う。本土と同じようなところに、同じように出没するのではあるが、近くで見ると、どうもやけに小さいことに気づく。

小さめなハシボソガラスかと思ったが、これはオサハシブトガラスという別亜種である。こちらは、蝶のように、エメラルドの光沢がどうのこうのというようなことはなく、大きさが違う程度ではあるが、一見、同じに見えるあたりまえのような鳥であるのに、よく見たら違うのでびっくりした。

八重山では、このように様々な生き物が微妙に違っている。
やはり、小笠原や八重山は、同じ日本でも動植物の相でみると、本土と同一エリアではないのだなあとはっきり感じる。
(つづく)

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八重山を歩く(4) 八重山の蝶

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~最も目についたスジグロカバマダラ~

石垣島には、いたるところで蝶が舞っていた。大きめで、かつ、活発に飛んでいる

日本の生物の地理的な分類上において、鹿児島と屋久島の間又は屋久島の南のトカラ海峡とには重要な境界がある。前者を三宅線、後者を渡瀬線と呼び、ここを境に南北では生息する生物の種の構成に大きな差があって、昆虫では主に三宅線を境界とし、他の多くの生物では渡瀬線が適用されることが多い。

爬虫類や両生類などは、移動能力がかなり乏しいので、海という地理的な障害が持つ意味は計り知れないことは言うに及ばないが、飛翔力を持ち、移動能力と繁殖力に優れた昆虫や鳥類の仲間にして、そのような境界が認められるのだからなかなか興味深い。

さて、その三宅線又渡瀬線より南の琉球列島(南西諸島)は、世界的な視野で生物をみたときの地理的分類区としては東洋区と呼ばれ、熱帯系の生物層が顕著であるが、そこに住む蝶もまた、ふだん関東周辺にいたのでは、まず見かけることはない熱帯系の蝶たちで、色彩や姿の優雅さと珍しさを楽しませてくれる。

石垣島に訪れたのは5月初旬で、特に目だったのは、マダラチョウの仲間だった。マダラチョウといえば、いつも出かける林道でも、アサギマダラの姿は見ることができるが、本土でみられるマダラチョウはそれくらいであり、八重山には定着しているものだけでも6種のマダラチョウの仲間がいるようである。

マダラチョウの仲間は、ふわふわと綿のように軽く、とても優雅な翔び方をしていて、見ているこちらをおおらかな気持ちにさせてくれる。翅の形状がすっきりと整ったものであるためか、それほど大型の蝶という印象はないが、実際にはアゲハの仲間と同じくらい大きい種が多く、軽やかに林間を翔んでいる様はよく目立つ。

ところが、マダラチョウの仲間が目立つ上にゆったりのんびりと翔んでいても、鳥などの捕食者に襲われることはあまりない。それは、この蝶の仲間は植物から採り込んだ毒の成分だけを体内に蓄積させていて、食べるとひどくマズイという記憶を鳥たちに植えつけることに成功したからだという。

なるほどと思うかもしれないが、絶対的な正解と、簡単には決めつけない方が無難かもしれない。体内の毒の蓄積までは実証できるが、一方の捕食者の方となると、一個体がそのマズイという記憶を生涯持つことも確実とはいえないが、それ以上に、このような体験から獲得した記憶が、文化のない生物において次世代へ伝えられる仕組みがあるのかないのか不明である。現在のところ、こういった後天的に獲得された事項は遺伝には馴染まないのであるから。

生物の不思議な部分はあまりに多くて、そのほとんどには、推定的な正解しかまだ用意されていない。
(つづく)

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八重山を歩く(3) キシノウエトカゲ

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~日本最大のトカゲ~

さて、石垣島のヤシの群落をより奥へと進んでいくと、ヤエヤマヤシは一層深くなり、それ以外の樹種がほとんど見当たらずに周囲の視界がヤシで埋め尽くされてしまうほどの群落の中枢部とも思えるところに出た。
頭上を見上げると、ヤシの葉のあい間からのぞけるまっ青な空とまっ白い雲がまぶしい。

ガサッという音、今度は、先ほどのイシガキトカゲとは明らかに違う重量感のある音がした。すぐさまそちらを振り向くと、やや大きめのヘビ類程度の頭を持った爬虫類が倒木の隙間に消えていくのが一瞬だが見えた。ほんとうに一瞬であったので、目に映った姿は、頭と胸部までは150cm以上はありそうな立派なヘビのような体格であるのに、それにしては、胴長は40cmくらいと極端に太く短いヘビに見えた。

まあ、絵にしてみれば、いわゆるツチノコというやつになってしまうが、目に映ったのは一瞬のことであったし、また、動きがかなり早かったため、足が見えなかったのであって、常識的にはこれはトカゲなのだろう。しかし、そうだとすれば異常に大きい。一体何者?

なにしろ、ここは動物園や水族館の爬虫類コーナーではなく、まったくの自然環境の中である。そんなに大きいトカゲにはお目に掛かったことはない。再度、姿を確かめようと、一緒に歩いている妻にも声を掛け、その爬虫類が消えていった倒木の隙間のほうを見守った。

しばらくすると、ゴソッと音がして、運よくそいつは再び表に現れて来てくれた。いやはや、びっくりするほど太くて大きいトカゲである。
もちろん、世界中にいるトカゲの仲間には、コモドオオトカゲのような真に巨大なやつもいて、飼育下ならば、そういう大トカゲも何度もみてはいる。

しかし、いくら南西のはずれに位置するとはいえ、石垣島も国内の島には違いない。緑色の細長いトカゲなら、目新しさはあってもさほど驚かなかったと思うが、これにはかなり驚いた。

八重山、宮古の両諸島に固有の種にして、全長40cm超という日本最大のトカゲ。日本にいく種もいるスジトカゲ属の盟主のようなこのキシノウエトカゲは、準絶滅危惧種で天然記念物でもある。イシガキトカゲと色形は似ているし、ほぼ同じところに住むが、とにかくその大きさや重量感が圧倒的に違う(上の画像では残念ながら比較対象物がなく判りずらいかもしれません)。

地元の方に聞いてみたところによれば、かつては家屋周辺にもよく現われ、「オカノウエトカゲ」と呼んで親しまれていたが、近年さっぱり見られなくなってきたので、見られたのは幸運だったということだった。

これほどの存在感。うっすらと図鑑の写真が脳裏にあったくらいで、ノーマークだった。こんな主要種の存在を軽視していたとは、国内の生き物にはかなり自信のあるつもりだったのに、琉球方面にはやや手抜きがあったのだろう。八重山の自然の奥深さに恐れ入った次第である。

(つづく)

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八重山を歩く(2) イシガキトカゲ

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~ちいさなニホントカゲのなかま~

しっとりとした空気に包まれているヤシの繁る山の中を歩いていく。大きめの蝶も気持ちよさそうにふわふわと舞い、ヤシ群落の中は必ずしも暗い森ではない。

ふと、足元のすぐ近くから小さくカサコソっと、枯れ枝や落ち葉を分けて、明らかに何かが歩く音がするのに気が付いた。

強く興味を持つものに対しては、誰しも五感がよく働くものである。私も普段の視力・聴力自体に自信はないのだが、生き物の動きや気配となるととたんに過敏になる。

いま、音が聴えてきたあたりを注意深く観察すると、地に積もった枯れ葉の一部が時折揺れ、その揺れる位置が少しづつ動いてゆく。どうやら、枯れ葉の下を断続的に歩いて移動していくトカゲのような生き物がそこにいるらしい。

この八重山のヤシ群落に住むトカゲ、はたして、どのような姿を見せてくれるだろうかと期待して、さらに観察を続けた。

そして、しばらくじっとしていると、ようやく枯れ葉の間から頭をひょこっと上げたトカゲの姿を確認できた。

ただ、それは、なにか目新しさを感じるようなトカゲではなく、普段我が家の庭でも見かけるニホントカゲと、色合いもあまり変わらず、違うとすれば、成体にしては少々小さめかなという程度のトカゲだった。

おそらくイシガキトカゲだろう。ニホントカゲを代表とする日本産のスジトカゲ属の仲間のなかでは最も小ぶりな種である。

「成体にしては」といったのは、そのトカゲは、体全体は褐色であり、そこに薄い黒スジがあるという外見であって、スジトカゲ属の仲間に共通した幼体の特徴といえる尾部を中心としたきれいな青色は見られなかったからである。

幼体の青色が残るうちは、このトカゲは小さめなこともあって、「宝石」の称号があるくらい綺麗であり、また、成長しても結構いつまでも青色が残るようであるが、すっかり成熟した親になると地味な色で、まあ、こうした生き物に興味がなければ、この八重山の地で見掛けたとしても、ああ、トカゲか・・・でおしまいなのかもしれない。

ところどころに午後の太陽の木もれ日が落ちるヤシ群落では、相変わらず、ふわふわと時折蝶が舞い、のどかな時が流れていた。そんな中で、しばらくはこのトカゲの仕草を見守った。

八重山を歩く(3)につづく
八重山を歩く(1)にもどる

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八重山を歩く(1) ヤエヤマヤシ

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~椰子はどこから来た~

例年どおりなら、既に雨季に入っているはずなのであるが、幸いにして雲一つなく、太陽のまぶしい初夏の石垣島を訪ねた。

椰子の群落へ向かう。群落というよりは、一つの山である。島周回の幹線路を外れると、すぐにそれらしき独特の雰囲気を周辺に漂わせた山が見えてくる。しかし、その、少しの怖れと大きな期待を感じさせる雰囲気を、何と言ったらいいだろうか、そこだけは、いまだ中生代が残されているかのような、ロストワールド的な香りがするのである。

ヤエヤマヤシの群落内を歩いてみた。植生は、いつもの見なれた温帯の落葉樹林とは当然まったく違うものであるし、温暖地の照葉樹林とも違っていて、まるでジャングルである。

ヤエヤマヤシは、この石垣島と西表島に限定分布するヤシで、分類上、一属一種という、この八重山で独自の進化をしてきた希少な種であるという。なんでも、海を隔てながらも比較的近隣にあるフィリピンや台湾に自生するヤシよりも、むしろ、遠く離れたニューギニアのヤシに近縁であるらしい。そうすると、かつて波に揺られて海を渡り、漂着した後に大地に根を下ろした椰子の実は、かのニューギニアの浜辺でこぼれ落ちたそれだったということであろうか。

そういえば、石垣の市街地にある博物館には、南の海の遥か向こうにある、あちらこちらの島々から漂着したという、木をくりぬいて造られた、いつの時代のものとも知れぬ小舟がいくつも展示してあった。

八重山を歩く(2)につづく

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石の顔

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Nikon D200 / AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~様々な表情を楽しむ~

河原を歩く、上流の沢がいい。
ごろごろと、数限りなく石が転がっているけれど、もちろん、どの石もみな色、そして形がはっきり違う。その川が流れてくる源の山の色彩が個性となってそこに出るから、川によっても石の種類が、傾向がそれぞれ違う。

河原の石をぼんやり眺めていると、ひとつひとつに顔が見えてくる。小さな石より手ごろな大きさの石のほうが表情ははっきりしている。

林道を走って一休み。河原の石に腰掛けて珈琲をすすりながら、ぼんやりと石を眺めていると、その石には目鼻があって、こちらを見ている。そう見えた。

命の宿らない無機質に個性が見えてくる。幻想の世界では石にも命を宿らせてしまうが、こうやって石を眺め、個々の表情を目の当たりにしていれば、それは、人の当然の感情だろうと納得できる。

石の名前のことはよく知らない
これまで鉱物の世界には足を踏み込んだことがなかった。
どんな世界も踏み込んでみると奥は深いもの。

それぞれの石が、どんな成因で出来上がり、その成因によってどんな特質を持ち得て、そしてどうして今、そこに存在するのか。深い知識があったなら、また違った目でこの石たちを眺められたことだろう。
興味ある世界。

ただ感傷的に眺めることも楽しいけれど。

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爬虫類の住める庭

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Photo : Nikon D200 / Tokina AT-X M100 AF F2.8
~シマヘビが遊びに来た~

湿度が高く空模様のはっきりしない日が続くが、本格的な夏はもう間近で、雲間からときおりのぞく日差しは、肌をつき差すような真夏の日差しそのものである。

庭の雑草もいままさに伸び盛りで、汗をかきかきひととおり草取りをしても1週間であっという間に元に戻るのには辟易するが、草取りをしていると、毎度のようにニホントカゲが顔を出すのがかわいい。

我が家の庭には、数匹のニホントカゲが住みついている。このところ、草取りのたび毎度顔を出してくれるのは、おそらく昨年の夏に孵化した幼生である。ちなみにニホントカゲは5~6月に卵を産み、2ヶ月ぐらいで孵化。メスはその間卵を守るようである。

ニホントカゲの幼生とはいっても、そういうにふさわしく小さかったのは春くらいまでで、いまでは孵化して1年近く経ち、もうずいぶん大きくなったものだ。真っ青だった尾の色も少しづつ褐色を帯び、体つき全体もずんぐり丸くなってきたのが分かる。もうそろそろ大人の仲間入りと言ってもいいのかもしれない。
餌となる小昆虫が多いこの時期、活発に走りまわっている。

少し前、庭にシマヘビがやってきた。
おとなしい性格のシマヘビの顔はかわいらしかったが、体長は180cmはあろうかというなかなか立派な蛇だった。ふと、気が付くと、野鳥がよく来るキンモクセイの木に巻きついて昇っていこうとしているところで、ちょっと一休みしているところを失礼して、アップで画像に収まってもらった。

訪問の狙いは野鳥か、アマガエルだろうか、こんな立派な蛇に庭の片隅にでも住みついてもらえると、住宅地内の庭としては、たいへん理想的なのだが、ひととおり用は住んだのか、数日のうちには、他の場所へと移って行ってしまった。

周辺の野山においても、だいぶ爬虫類たちにとっては住みづらくなってきてしまっている。できれば、こうした静かに暮らすものたちをそっとしておいてあげられる環境を残したいものだが、世の流れはなかなかうまくいかない。せめて小さな庭で、ひとときだけでも、ゆっくりくつろいでもらえたらいいなと思うし、不都合なければ、住み着いてもらえればなおいい。

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雪形

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Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
(105mm ISO100 1/1000" F6.3 PL-filter)

~林道陣馬形線より南ア・南駒ヶ岳-空木岳~

アルプスを一望に見渡せる林道を走ってきた。
中でも南、北、中央と3つのアルプスを一望できる林道王城枝垂栗線や、中央アルプス真正面の林道陣馬形線からの眺望は、天気・季節も相まって、本当にすばらしいものだった。

雪を抱いた山の姿、5月はとりわけ美しく見える。
富士にしてもアルプスにしても、はたまた日光や福島の吾妻連山、月山も飯豊山もみなそうだ。

同じ雪を被っていても、新雪は雪そのものが新鮮であるのに違いないが、たまたま雪が多く降ったところはより白く、たまたま雲が掛からなかったところは地のままということもあり、その真新しい白で描かれたシルエットは、気ままで大雑把で柔らかな線を示す。

日が当たり暖かな地形、雪の積もりにくい地形から順次に地を表して形作られる春の残雪は、形状は地形そのものを反映し、気ままなようでいて定型式では示せないようなルール、フラクタルな模様が描き出されている。

その一見無機質な「雪の形」又は現われた「地の形」の残雪模様から馬や鳥や人などの形を見出し、農耕の時節の目安としたものを「雪形」といっている。
有名どころでは、白馬岳の「代馬」、蝶が岳の「蝶」、爺ヶ岳の「種まき爺さん」など、山そのものの名前の由来となっていることも多いように、その麓の人々にとって、大変に身近な存在だったことが伺われる。

多数の人の目に同時に触れる自然が造った偶然的な形を、生きものや物にたとえるという点では、星を結んだ形で表される星座とも共通している。農耕や漁といった生活上の季節のめぐりと繋がりが深いところも、雪形と同様であるのは興味深いところである。

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化石

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Photo:Nikon E5700
その時代を生きた数々の生物

先月、常磐のいわきで化石掘りをして、巻きなしアンモナイトの化石が採れた。
「化石を掘る」というのは、自分にとってはかなり久しいことだった。林道を走っていても堆積岩の露頭が見られると、すぐに頭は化石の存在を考えるが、近頃では地層を手で触るところどまりで、掘りだしたり、下に転がっている石を丹念に調べたりということはしなくなっていた。

「化石」という言葉は広く知られるが、必ずしも正しく理解されているとはいえない。化石の話をすると、「ああ、○○の貝塚を見たことがあります・・・」とかの混同話も聞くことが多い。まあ、私にとっては古生物も縄文時代も興味の対象真ん中付近であることには違いないのだが。気が遠くなる太古の自然の姿を今に残す化石と、それに比べてしまうと、ぐっと新しい時代の人の営みを今に伝える遺跡がひとくくりになってしまうとは、こうした分野への興味の低さが伺えて残念である。

「化石」とは言いつつも、文字どおり石化しているようなものには、なかなか触れる機会がない。地層の形成された時代が新しく、そもそも岩石さえもない私の地元の地質からは、そういったものは望めず、特に意識して産地へ赴くということはしていないので、これはいたしかたないところである。

アンモナイトの化石というと、比較的近隣で産地としてすぐ思いつくのは、銚子といわき。銚子には2年間ほど住んだこともあったのだが、残念ながら赴任地での仕事に追われていたこともあり、その間に化石に触れる機会はなかった。

先日、いわきでの化石掘りではアンモナイトに出会うことは出来たが、また、子供時代のように太古の生物環境の生の痕跡に触れる機会を増やしてみたいと思う。

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春の楽しみ

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Photo:Nikon D200/SIGMA 70-300mm F4.5-5.6D
(300mm 1/250" F5.6)

~野山に春の香り~

山や野や田を歩くと、足元に春の足音がはっきり聞き取れるようになってきた。日当たりのよい斜面にはツクシが顔を覗かせ、梅の花は芳香を漂わせ、山ではフキノトウも姿を見せている。

自然のありがたみを一番感じるのは、春の始まりであるこの時期ではないかという気がする。
身動きままならない冬がやっと去る気配をみせ、暖かさに様々な活動が再開される時期、日一日と変化が見られ、それに連動して自然のありがたみを肌で感じる季節であると思う。
おそらく、この林道百拾号線でも、四季のうちでは、春の記事が一番多いのではないだろうか。

この週末は穏やかな天候に恵まれて、まだ芽を出すまでには至っていないような草木も一斉にその芽を膨らませたようだ、庭に植えたカラマツもその芽が大きく膨らんでもうすぐ緑の葉が出てくるだろう。

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水面月

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Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~蒼い光、水面に浮んで~

今夜も晴れている。
湯上りに、いつものように庭に出て夜空を眺めた。冴え冴えとした月の蒼白い光がまぶしくて、星々は輝きを沈めている。

庭に作ってみた小さな池。ちょっと味気のない水溜り。春になったら、ここにかえるの卵でも放ってみようかななどと思っているのだが、この小さな水面に月が浮んでいた。
小さな池だけに波はなく、月は歪みなく綺麗に浮いている。
いつもと左右反対の月。

もういくときも待たずに水面は氷が張るだろう。そのときそこに閉じ込められた月の光は、明日の朝、朝日が昇ると、人知れずキラキラと溶け出していくに違いない。

現実は、そんなにファンタジックじゃないけれども、時折そんなことでもありそうな幸せな気持ちに浸れるときもある。

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長い影

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Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~昼でも樹形を長々地に映す~

冬、日の影が長く伸びるのは朝夕だけではない。正午前後であっても夏の夕方のような長い影を落としている。
なんとも、ますます寒さを感じるものだが、その一面で、影も斜めなら陽射しも斜め、家の中には光がたっぷり差し込んで、窓を閉め切った南向きの部屋には、暖房がなくてもぽかぽかの温もりを与えてくれる。

ところで長く伸びた樹形の影は、冬にしか見ることが出来ない風物詩である。夏には、どんなに陽射しが傾いた朝夕でも見れない。影は長くとも、木が青々と葉をつけているのだから樹形が現われないのは当然である。

長く伸びる冬の影は、自分の影も例外なく長く見せる。しかも特に足ばかりが長く伸びたように見える。ちょっと自分の足が身軽に長く感じるのが楽しい。もちろんそれは、目線の関係であって、本当に足が伸びたのではないのは言われなくても分かっているが・・・

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氷の花の紋2

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Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~近隣のこの池にも同じ模様が~

前投稿後すぐに近隣の他の池をいくつか見て回った。幸い家の周辺には湖沼は数多い。
すると、他の池にも規模の大小はあるが、やはり同様の文様が湖面の氷に浮き出ていた。

そうしてみると、

①このあたりでは池に氷が張ること自体が最近少なく、その上に雪が積もることはなお珍しいことで、いつもの冬季の条件では見かけたことがないこと、
②文様の丸い部分は、雪がいったん水を含み再度凍ったときのような色合いで、やや厚みがあること、
③周辺の池に一様に文様は見られたこと、
④文様のまん中には穴が見られ、文様はその穴を中心としたほぼ真円状であること、
⑤あまり意識はしていなかったが、全く初めてみたのではなく、どこか(おそらくスキーの行き返りでの景色)では見た覚えがある現象であること

などから考えて、やはり一昨日の朝凍った湖面の薄氷の上に、夜になって雪がうっすらと積もり、そこに何らかの穴や亀裂を通して毛細管現象のごとく染み出した水が描いた円状の模様であって、この地域に限らなければ、特別珍しいものではないのではないかと結論したがどうだろう。

やはり、これは氷紋の一種なのだろうか

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氷の花の紋

N20060107-113526
Photo:Nikon E5700
~湖面の氷に花開く~

一昨日の晩にほんの少し雪が降った。積もったいうほどにはやや足りないのかもしれないが、それでも1cm足らずの雪で近隣の景色はうっすらと雪化粧して一変した。
昨朝、このあたりでは稀な雪景色を楽しむために、近所一帯を散策していると、家からそう遠くないところにある池で、見慣れぬ斑紋が見られた。

これはどうやって出来たのか、よく判らない。
「氷紋」といって、氷上の積雪に氷にあいた穴から出た水が染み出し、再び結氷して出来た模様とされるものがあるが、これも湖面の氷上に咲いた花のようなものも「凍紋」だろうか。「氷の花」や「霜の花」などというのとは違う。
近所の池で見られたこともあるし、特に珍しいものではないだろうと思うのだが、調べてみても同じようなものが見当たらなかった。

そもそもこの模様の成因が頭を使わせてくれる。やはり湖面の氷上に雪が少しでもあったから出来たのか。中央の穴から水が出たのだとすれば、その穴はなぜ出来たか。降った雪は氷に影響を与えるほど多くはなかったはずだが、氷もこの温暖な地では微妙に薄い。

自然の作り出す色、模様、形はいつも目を楽しませてくれるとともに、想像も広げてくれる。

※投稿後、すぐに調査した結果を「氷の花の紋2」に追記

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朝の予感

N20051230-074331
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~朝の海に鳥が翔る~

日の昇る朝は、感覚が澄まされている気がする。
光に敏感で音にも敏感。少しの動きに神経が反応する。

これに対して日が沈む夕方は、あたりが真っ暗になったと感じていても、実際には、まだ空はかなり明るいということが、昨夏に房総の蛍を見に行ったときに実感としてよく分かったように、特に明かりについては、あまり敏感ではない。明るい昼を過ごした後なのだから、ある程度当たり前なのかもしれないが。

同じ明るさの天文薄明(太陽の中心が水平線下の角度でおよそ18°までのときいう)でも、朝の薄明ならば、夕方の薄明かりを敏感に感じる蛍でなくとも、もっと敏感に感じると思う。車で早朝に遠方へ出かけることは多いが、朝の明るさの予感のようなものは、かなり早い時間に感じられる。

朝に鳴く鳥が、一見真っ暗なうちからその鳴き声を上げるとき、空をよくよく見てみれば、うっすら朝の予感を感じ取ることが出来ると思う。

冬の海。白々と明けた朝の空へ、数え切れないほどの海鳥が渡っていた。

新しい年が明けました
やはり0:00に日付が変わることよりも
朝の明け行くさまにこそ新年の訪れを感じますね
本年もよろしくお願いします

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カラマツ

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~明るく真っ直ぐな樹~

庭にカラマツの苗を植えてみた。不得意な温暖地に果たしてうまく育ってくれるかがとても心配だ。

カラマツは、わが国の自生種では唯一の落葉針葉樹であり、また他国に無い固有種でもある(もちろんヨーロッパなどにもカラマツ属の他種は存在する)。
木材としても優秀であって、各地で広く植栽されているが、近年は需要が減少したようである。自生ということで見ると、かなり生育息は限られていて、東北・関東・中部地方の山地にしかない。中心は信州などを中心とした中部山岳地域。
イメージ的にはマッチしても、北海道のカラマツはみな植林ということになる。

漢字では「唐松」と書くが、唐の時代の中国の絵に描かれた松に似るという説明はあまりピンとは来ない。針葉樹であるのに珍しく落葉するという意味で「落葉松」の名は悪くない。

日当たりを好む樹の性格上か、夏であれ冬であれ、四季を問わずに、なにかいつも日差しの下で健康そうに真っ直ぐ伸びている印象の強い樹である。秋の紅葉した山の木々の中でも、イチョウのように白を含む黄でなく、もっとずっとオレンジに近い濃い黄色を呈するカラマツの黄葉は格別だ。離れてみるのもいいし、見上げるもいいし、シルエットもまたいい。

最も印象深いのは、中津川林道の三国峠で見る黄葉。
ここから見渡す信州側の景色は、山また山まさに黄一色。これは是非見ていただきたい景色である。

こんなカラマツを身近で育ててみようと思ったのだが、そういうものは、「見に行くから価値がある」などとも言われそうではある。しかし、人がどう思っても、また、健康な育成はなかなか難しいのかもしれないけれども。やはり、あんな黄葉が、雪も滅多に降らない身近な我が家の庭で見れたら最高だとの思いは強いのである。

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11030014
~落ち葉に霜・秋から冬へ~

先週末に山を散策した。
我が家の周辺は、温暖な地であるから、まだ冬は気配しか見えないが、既に山は一足早く冬に領域に入っている。

この時期になると、林道に展開する景色は明るくなる。繊細な小枝が目立ってくる。そして、その先に普段見えない景色が見えてくる。

霜は降るのか生じるか。
言葉としては、霜が「降る」とはいう。また多量の霜が降ったのを見ると、それは本当に空から降ったのではないかと思うほど厚く、まるで積もったようにも見える。今はまだ暖かいが、本格的な冬が来れば、我が家の周辺も霜は降る。子供の頃など、朝、雪のように降った霜をかき集め、雪ダルマを作ったことさえあった。
霜は降る。
見た目はそう見える。けれど、そうではないことも、みな知っている。

霜はそこに生じる。冷えたビールジョッキに付く露のごとく、空気中の水分がそこに昇華してゆくのである。
様々な形をした木の葉や草の葉に、白い結晶をちりばめて、寒い冬の朝を、また一層寒く冷たくそして美しく彩る。

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炒り椎の実

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~殻が割れて美味そうな実がのぞく~

椎の実を炙った。
この香ばしい香りはたまらない。あつあつの殻を爪でこじ開けて、ささやかな実をぱくりといくと、口の中に木の実特有のこくと懐かしさのあるあの味が広がる。

子供の頃は、実のなる椎の木を庭に欲しいと思ったが、どうしたわけか、まだそれは実現していない。こじんまりした庭にあの大木は無理だし、実がなるとしても、小さな椎の木では、ちょっと興ざめる。やはり、椎の木はこんもりと、遠くから見たら山のようでなくては・・・そんな思い入れもあるからか。

昨秋も椎の実を題材に1項書いたが、自分にとって、秋を感じるものとしてははずせない存在である。フライパンなどで炒るのだが、昔は穴の空いた古い鍋を、椎の実炒り専用に使っていたのが思い出される。炒るのは空焼きみたいなものなので、無造作に使えてよかったし。蓋もついているから丁度いい。
その鍋を揺すって炒っている時の、カラカラという音も秋のイメージとして頭に焼きついている。

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秋分と彼岸

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~彼岸花が咲く里道~

昨日、林道へ続く里道を行くと、小川に沿って彼岸花が点々と咲いていた。そうか、今日は秋分の日だったなあと思い出す。

秋分の日とは、昼と夜の長さが同じ日という言い方が一般で、厳密に同じくなるわけでもないのだが、太陽がこちら側、天の北半球から天の赤道を横切って天の南半球に移る時のを日付けである。
むろん、半年後に太陽は今度は南半球から北半球に帰ってくる。そのときが春分となる。
赤道上に太陽がいるわけだから、その日の出、日の入りは、ほぼ真東から昇り真西に沈むことになる。

一方、彼岸というのは元々は仏教でいうところの、悟りの世界のこと。こちらの世界を此岸というのに対してあちらが彼岸であり、仏教のことはまったく知らないが、こっちの岸とあっちの岸というようなものだろうか。

この天文の分野の「秋分」と、仏教の分野の「彼岸」が、どうしたわけか、今は一緒に扱われている。

まったく関係なさそうにも感じるが、それなりに深い関係があって、日本では春分と秋分の日がそれぞれ彼岸の中日(なかび)に当てられ、自然をたたえて生物をいつくしむ日、先祖を敬い偲ぶ日として、祝日となってさえいる。「日本では」と書いたのは、仏教行事の彼岸は、当然のように他の仏教国でも同様に行われていると考えがるのが普通だが、実は日本独自のものらしい。

さて、その秋分と彼岸の関係だが、昼と夜が同じで、昼夜半々というのが、仏教の中道精神を表すことや、極楽浄土である彼岸は真西にあるのだそうで、そうなると、真西に太陽が沈む秋分は、その方向、進むべき方向が示される日ということになるというあたりが、関係といえば関係であるようである。

いずれにしても、農業信仰上の暦も含め、長い歴史のなかで形作られてきた日本の習俗であるので、一言で片付くことではないのだろうが、暦と天文というものは非常に強く結びついていることの一例ではある。

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湿原

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~秋の田代山湿原を歩いた~

福島県と栃木県をまたぐ田代山林道は、ここ数年栃木県側で通行止めとなっていて、いまだ、再開の話しを聞かない。その福島県側を遡って、通行止となる峠手前まで上り詰めると、そこが田代山(1,926.3m)への登山口になっている。

昨日、機会あって初秋のこの山に登る機会があった。この山の特徴は頂上付近が広大な湿原となっていること。
こういう山は、他にも幾つか例があり、苗場山などは、その代表例といえる。「田代」も「苗場」も湿原を水田に見立てたもので、古の農業関連の信仰に由来する名前であろう。

この山頂周辺の湿原は、地形の傾斜などからみて、湖沼が陸化したものとは思えず、別の成因になるはずであるが、そのあたりは詳しくないので、そのうち、調べて見ようとは思っている。

さて、この田代山の湿原、2,000m近い標高に渡る風も肌に冷たく、背の低い植物群は一様にやや赤みを帯びて、秋の気配を濃厚に演出していた。
湿原は、初夏の花が咲き乱れる季節が一番とは思うが、これはこれで味わいのある景観である。寒い季節の訪れが一足早い高所の湿原へ、秋のこの時期に足を運ぶのもいいかもしれない。

それにしても、田代山湿原には、食虫植物であるモウセンゴケが数多く繁殖していて、赤みのあるこのコケの色も、湿原全体の赤色を、よりいっそう赤く見せているように見えた。湿原では視点を低く落として、よくよく覗き込むと、様々な植物が各々独特の顔を見せてくれる。

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夏の終わりに

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~秋の虫達の季節がやってきた(ヤブキリ)~

夏が終わりを迎えようとしている。
涼しくなるので、うれしいと感じる方の方が多いだろうか。夏が好きな私にとっては、ちょっと寂しくなる季節であるのだが・・・

特別、何が寂しいというのではない。この時期になれば、夜はコオロギなどを中心とする秋の虫が、いかにも涼しげな鳴き声を立て始め、耳を傾ける時間があれば、それはそれでとても風流であるはずなのだが、近頃は、何か心に落とされた影を感じるのである。年周期の生命活動がピークを過ぎて下降線を辿り始めることを感じるからであろうか。

それにしても、子供の時分に比べたら、音や映像、そして空調にパソコンと、電気に溢れた生活に埋もれてしまっている。
布団で横になり、何もない暗い部屋で、ただ、マツムシやカンタン、そして、スズムシにウマオイと、種類豊かな庭で鳴く虫達の声を聞きながら、いつしか眠りに落ちてゆくようなことは、もうなくなってしまった。

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ビオトープ

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~移入した水草に上陸する~

家の目の前にある池に、ちょっと広めの放水施設がある。
この放水施設は、池から放水されて下流へ流れる水を、二次的にストックし調整するための小さなダム状のものである。もともとは、全面コンクリートであったのだが、いまや、そこにたまる水とその周辺に、程よく水草や水辺の草が生え、貝類や小魚なども住みついて、ちょっとしたビオトープになってしまった。
それこそ、我が家がこの地に移り住んできた頃は、白いコンクリートだけの乾いた施設であったのに、時の流れとは早いものだ、もう15年以上の月日が流れている。

ところで、近時、各所でビオトープ作りが盛んであるようである。自宅の庭の片隅に作るささやかな大きさのものから、休耕田などを利用した大きなものまで様々であるが、いずれも、個人や管理する団体の想定する自然環境に模されて、豊かな生物環境を形成しているようだ。
このビオトープという言葉は、もともとバイオ=生き物、トープ=場所ということで、「生物群の繁殖環境」みたいな感じの意味であるが、現在においては、通常、「人の手による自然復元環境」というような感じに使われている。

この生物群の繁殖環境を創出するにおいて、自然のままに放置することも1つの方法であるのだが、そこに積極的に人が関わって、生物的に多様性のある環境へ導いていこうとするのが、ビオトープの考え方である。

しかし、このビオトープというものは、本来的な意味合いや、環境保全の観点からみると、必ずしも理想的環境ではないことが通例であり、自然環境、生態について純粋に取り組む方々にとっては、ビオトープというものは、歓迎されるものでもないのである。

それは、そのビオトープをプランするとき、プランナーの意思としては、より「豊かな自然」というものを意識しているのだとは思うが、それがいつしか、より「自然っぽく見栄えするもの」になってしまい、見た目によって、気に入った花を付ける植物を優先し、いかにも、ただの雑草らしいものは抜き取ってしまったりという園芸的なものになりかねないからである。また、水には熱帯産で花の綺麗なスイレンとかホテイアオイのような、本来は、その地になかった外来帰化種を浮かべたりといった具合に、結局出来上がるものがその地にあった環境ではなく、「独自にイメージした世界の擬似自然」となる傾向も低くないように思える。

さて、冒頭に書いた、我が家の近所の放水施設に成り立ったビオトープの話だが、実は、そこに繁茂した水草は、10年以上前に、私が近くの他の小川から採取して、それを、室内の水槽で小魚とともに飼育していたのだが、これをときおり剪定するときに、捨てて枯らしてしまうのも、少々かわいそうな気がして、その放水施設に植えた小枝が、その後にすっかり根付いてしまったものなのである。
まったく、違う地方の水草ではないが、本来そこになかった植物が繁殖したことになるわけであるし、目には見えずとも、おそらくは水草に付いていた微小な生物にまで目を向ければ、同様の事態になっていることが想像できる。

大げさに聞こえるかもしれないが、自然を維持しながら、人為で生態に手を加えることは、相当な慎重さが求められるということを強く感じた。
また、人が積極的に関わって創る自然環境の限界というものがある。いったん壊れた自然を取り戻す際も、その作業を人為で行う以上は同様であって、本当に元の姿を取り戻すということには、相当の困難があるだろう。だからこそ、壊さないことが最も重要ということが当たり前のことながら思い知らされるところだ。

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花散らしの雨

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~風に散った花びらを雨が打つ~

昨日までの予報どおり、雨となった。
昨日の大風。そして、今日の本降りの雨と冷気。ここ数日の桜の「夢幻のひととき」は吹き飛び、意識が現実に戻るとともに、また、日常の仕事の渦中に身を置いている自分に気がつく。

春の天気は、変わりやすく寒暖が激しいのも常である。そのまま、サクラ色の夢をむさぼっていたい気もするが、二度と社会復帰できなくなるような恐れも十分にある。

気持ちの切り替えにはもってこいの雨といえるのかもしれないが、白い花びらが、無残にも風に散り、雨に打たれてうなだれた姿は痛々しい。

この花散らしの雨で、半分以上の花びらが落ちるのだろうが、一雨ごとに季節は確実に歩を進める。


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桜・サクラ

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~淡紅白色のひとひらから~

桜が満開の季節になった。
言うまでもなく、桜の開花は秋の紅葉と並んで、日本の四季を彩る最有力のイベントである。
ただ、数の多いソメイヨシノなどの里のサクラは特にそうだが、桜の大多数は、自然の繁殖ではないから、その生息域は人の意思によるところとなり、人の活動範囲に集中し、山中では少数のヤマザクラなどの自生種を見かける以外は、紅葉のように全山的なイベントではない。

染井吉野は、江戸末期~明治初期にオオシマザグラとエドヒガンの2種の桜の雑種として、染井村(現在の東京都豊島区巣鴨)で生み出され、そこから今見るように全国に広がったとされることはよく知られる。数ある桜の種、品種の中にあっても代表的な種で、「桜前線」もこの桜の開花期を示すものである。

冒頭のとおり、ソメイヨシノが四季を彩るのは、主に人里であり、純粋な自然の姿ではない。しかし、それゆえに、集中した植え込みにより、開花時には圧倒的な数量、ボリュ-ム感をもって人の目を圧倒する。

桜の花、いや満開の桜の木をみると、なにか見てはならないものを見てしまったときに似た観念が沸いてくる。どこか人の世の狂気がそこに凝縮されて咲き漂っているような感覚といえばいいのか。なにかよく分からないが、人とのつながりが極めて大きいサクラであるからこそ感じる感覚なのだろうか。それとも数少ない私の文学体験によるものだろうか、白昼のまどろみを誘う並木道や風に舞い散る花吹雪にしろ、宵闇に浮かび上がるボヤッとした仄かな姿にしろ、そこには一歩踏み入れると抜け出せなくなるような結界のような「気」の存在を感じることがある。

今日は、日本海を通過中の低気圧に向けて南風が強まった。
やっと咲き揃った桜の花だが、もうサラサラと散りはじめている。明日にかけては天気も崩れそうだから、見頃のピークも今日までになったのかもしれない。

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モクレン

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~春全開のハクモクレンの花~

すっかり春になった。ハクモクレンが花期を過ぎようとしている。高さのある立派な樹形に、あれだけの大きな花をつけるから、人目をひきつける。
白い9枚の花びらが開いているようにも見えるが、実はそのうちの3枚は、形は他の6枚と似ているけれども、花弁ではなく萼である。

この白いハクモクレンは、紫のモクレンより少し前に花をつける。色だけ違うようにも感じているが、よくよく見れば、細部では違うところはいくつかあるようだ。
春、雪解けの林道で目を楽しませてくれるコブシやホオノキもモクレンの仲間。

さて、ハクモクレンやモクレンは普通中国原産とされている。そういわれれば、あの形、あの色は、そんな気もしないではないが、ここで、植物の世界を「原産」というものに注視してみてみると、では仮に、この地に初めから生まれ育っていた植物だけを残したとしたならば、いったい、どれだけの植物が残るのかという思いがある。

園芸・農業と縁のある植物の相当の割合が、遠い原産地を持っている。色、形、季節季節に人の目を引く植物は、それだけ人との関連が深く、長い歴史の中でこの地に持ち込まれたものの割合が圧倒的に高い。

それが、いいとも、悪いともいいがたいが、外来生物の被害防止などが社会問題として浮上しているなか、個体自らが積極的に動き回れる動物よりも、個体限りでは能動的には動き回れない植物のほうが、世界規模での拡散の歴史を辿ってきたように感じられることはなんとも不思議に思われる。

モクレンと関係ない方向へ行ってしまったが、そろそろ、山々の雪も少しずつ解け始め、林道で白い大きな花を楽しめる季節も間近である。

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貝殻の記憶~風の音色4~

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~ころりと丸いツメタガイの貝殻~

貝殻を耳にあてると聞こえてくるかすかな音。貝が昔、海の底に住んでいたときの波の音が、この中にずっと残っている・・・
誰に教わったか、子供の時分にこんな風に聞いたことがなかろうか。

貝殻に音が記録され、常に再生されているはずもないだろうが、耳にあてれば確かに波の音はする。巻貝の妖しい螺旋の不思議もあって、本当にそうだとは思えないまでも、ちょっとそう信じたくなったものだった。

地元の海岸でよく転がっているこのツメタガイ。二枚貝のあの堅い殻を溶かして突き破り、中身を頂いてしまうという、ちょっと怖いところもある巻貝だけれど、貝殻と成り果てて、浜辺にコロリと転がった姿は可愛らしいものだ。
よく耳にあてたのは、この貝殻だった。かすかに波の打ち寄せる音がした。

また、サザエの貝殻を耳にあてたとき、これは、さすがに岩と波のぶつかり合う激しい海に育った貝だな、そう思わせる音に感動し、まぶたの裏には、荒磯の情景が浮かんだものだ。

けれど、貝殻に記憶された遠い昔の波の音は、風の音。
今、その時、自分の肌をの周りを通り抜けていく空気の流れを貝殻が拾う音。

山から掘り出した貝の化石に耳をあて、数千年、数万年の昔の海の音が聞いてみたかった。

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スギゴケ

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~小さな世界~

スギ・・・スギナ・・・ときたので、スギゴケに繋げたい。
とはいえ、コケのことはあまり詳しいことを知らない。

スギゴケは最もポピュラーなコケの仲間で、まさに杉の若苗にそっくりなその形状から、「スギ」の名前を頂いているが、正真正銘の「スギゴケ」というコケは、かなり標高の高いところに生育している種で、林道を走りながら地べたを観察するときには見掛けるが、標高が低い我が家の近所の野山で最も普通に見かけるのは「コスギゴケ」であるのが普通。

茎の先端から、伸びているのを朔柄といって2cmほどの高さで、先端に円筒形の胞子嚢である「朔」をつけている。これがまた、近くに寄ってよく見るとなんとも可愛いもの。

イモリを飼育する水槽で、このコケを一面に貼り付けたテラリウムを楽しんだことがある。なかなか素晴らしい緑色を呈した小世界を演出してくれた。それにコケは両生類と良く似合う。


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スギナ

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杉の次はスギナ

スギナといえば、小さな頃に「ツクシはスギナの子」と教わった。
そう聞かされたら、「なるほど、ツクシが育つといつかスギナになるんだ」と素直に思ったのは無理もない。「オタマジャクシはカエルの子」の類いなのだろうと思ったわけである。

確かにスギナとツクシは似たような部分があるし、早春にはまずツクシが生えてきて、そのうちスギナが混ざるようになり、いつしかそこは、スギナばかりになってしまうのだから、そのとおりなのかもしれない・・・

けれども、まだ小さなシッポが残っているカエルのように、ツクシがスギナに変わっていく途中の姿などは見たこともないし、直感的にはなんだか違うのでは・・・

そんなことに、頭を悩ませていたというか、楽しく考えさせられたというか、そういう純朴な年代には夢が多かった気がする。


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小さな陽だまりで

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~花びらの中の世界~

黄色い花弁に囲まれた小さな空間に自分を凝縮してみたら、きっともっと暖かく感じるだろう、この太陽のくれるエネルギーを。
とうに冬至を過ぎた太陽は、少しずつその力を増して、やがてたくさんの草木や昆虫たちを呼び覚ます・・・

ついこの間、春一番が吹き荒れて、四月並みの陽気となったかと思えば、すぐに、真冬の寒さが戻ってきた。三寒四温という言葉の「三」や「四」に特別な意味はないはずだが、程よい寒暖比率を用いつつ、リズムのいい響きを持ち、かつ、次第に春めいてくる季節をうまく言い表しているものだと感心する。

近所の土手に花開いたタンポポの花を覗き込んでみた。しばらくじっと見ているうちに、そこだけを切り取った小さな世界へ入り込めたら、さぞかしふかふかで暖かになれるだろうなという思いにふけった。

どうも最近、たちの悪い風邪に悩まされて、熱が引いた後も、長いこと喉のイガイガは取れないし、毎日、ほんのちょっとの悪寒に休まらない。
花弁の中の世界に入り込みたいなどというような、柄にもなく乙女チックな感傷は、間違いなくその体調のせいだろうとは思うが、毎日、分刻みのウイークデーの日常のなかにあっては、たまにはこんな寝床で、何に気を使うこともなく、時間に追われずに、ただ、のんびりと転がっている時があっても悪くはないなとも思う。

そうはいっても、次から次へと、昼は仕事、夜は寝る時間を惜しんで趣味の時間という生活は続く・・・

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関東ローム層

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~崖地に目立つ赤褐色~

関東の林道を走っていると、よく出くわす赤い土、関東ローム層の土。これが水を含むとかなりヌメヌメになって厄介になる。

関東ローム層の赤土が風で飛散することを先の「春一番」の項でも触れたが、このローム層というのはどういうものか、あまり興味を持たれることはないかもしれないが、簡単なことだけ書いてみたい。

まず「関東ローム層」というのは、関東で見られるものであるが、「ローム層」というのは関東ばかりではない。ローム層というのは、火山灰又は火山灰由来の土砂の積もったもので、南関東では主に富士や箱根、北関東なら浅間や赤城などの火山から供給されたものである。

噴火で火口から放出された、火山岩塊、火山礫、軽石、スコリア、火山灰などの火山砕屑物を「テフラ」という。そして、ローム層はこれが風によって運ばれて地表に堆積したものである。ただし、一般には、噴火で巻き上げられたものが、直接に降下堆積したものと言われるが、いったん火山麓近くに堆積したものが、風によって再び巻き上げられ、撒き散らされて降り積もったとする説もある。
なお、この場合、ほぼすべての場合で、降り積もるのは供給源の東側である。それは、もちろん偏西風によるところにほかならない。

関東ローム層が、赤褐色であることは、少なくとも関東の皆さんはよくご存知のことと思う。また、関東でなくても、同様のローム層の見られる地域の方には、あの、赤土の色には馴染みがあるだろう。
あの「赤」色は、火山から噴出したときからの色ではなく、実は火山灰に含まれていた鉄分の酸化したもの、つまり錆びであり、テフラを構成する物質の周りに、酸化物の皮膜が作られたものである、したがって、この赤土はをよく水洗いすると、石英、輝石、角セン石、磁鉄鉱など、色とりどりの鉱物が現われるという。

それにしても、林道ばかりでなく、畑や工事現場など、生の土があらわになった露頭でローム層をながめると、空から降り積もったにしては、あまりに大量の砂が降り積もったものだなと唸らせるほどの堆積が見られる。

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雪の林道散歩

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~眠っているようでも何かがある~

雪景色の林道。明るく静寂に包まれたその環境は大変に心地よい。雪を乗せた、木々のひとつひとつの枝に目をやりながら、その合間を縫うように歩いてゆっくり進むのがいい、たまに、頭上の葉のない枝からサラサラと粉雪が降りかかる。
流れる景色を背景に、スキーでのんびり下っていくのも気持ちがいい。からりと晴れていたりするとなお格別だ。

さすがに車の走行は、初冬や春であればともかく、雪国の林道は少々無理がある。仮に入れても動くだけで精一杯。

さて、雪の林道でなにを見ることができるだろう。
春を待つ木の芽、さえずる野鳥の群れ、兎の足跡、餌を求めてさまよい出た小さなモグラ、風雪に負けない猿たち
何もないようで、様々なものを見せてくれるから、また、楽しい。

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枯れ草に寝転ぶ

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~流れてゆく空と雲~

まだ寒い日が続く。
それでも、風のない陽だまりにじっとしていると、厚手のセーターを通して、ポカポカと日差しが肌にまで温もりを伝えてくる。

土手の南斜面にごろりと寝転んだ。いつもと違った視界、いつもよりずっと地面に近い位置からの視線で見た世界。枯れ草が覆いかぶさり、その向こうに青空が広がっている。

初めて見る光景ではない。もう、ほとんど忘れかけていたけれども、ずっと前に見たことのある光景である。そう、それは子供の頃にあぜ道や川の土手で寝転んで見上げた空の景色だ。

もう長いことこんな風に空を見上げたことはなかった。こんな風景は忘れかけていた。季節風に流されて、真っ白な雲が千切れては、またくっついて、どんどん形を変えながらも流れてゆく。

冬の乾燥した空、カラカラの青い空は、生まれたばかりの柔らかな雲をすぐに吸いつくし霧散させてしまう。

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つららと氷筍

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~朝日の透ける剣~

朝の登校時、軒下からポキッと折ったつららを、剣として手に持ち、仲間と互いにぶつけ合って遊んだものだった。最近では近所の家の軒下にはもうつららが出来ることはなくなった。

「つらら」は氷柱とも書くが、平仮名で書く場合と漢字の場合を区別すると、下に向けて尖がって、途中でぶら下がっているのが「つらら」で、それがずっと成長して落下点まで繋がったのを「氷柱」と考えたらよいのか。その場合「氷柱」は”つらら”ではなく”ひょうちゅう”とか読んで区別すべきだろうか・・・

「氷筍」というのは、ぽたぽたと垂れ落ちる水滴が、落ちる直前に凍ってゆく「つらら」とは違って、滴り落ちた直後のところから上向きに成長してゆく。

地中の水分が這い上がって出来る「霜柱」について、寒すぎると地中の水が凍ってしまうので生成できないということを「しもばしら/霜柱」の頁に書いたが、「氷筍」も寒すぎると、液体の水が、全部「つらら」に供給されてしまうから、特定の気温域でしか出来ないと思われる。

地下水が洞窟などで作る「氷筍」は、時間をかけて少しずつ純度の高い水が結晶してゆき、真に透明な出来上がることが多いのを何かで見聞きした覚えがある。

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波の音 ~風の音色3~

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~白波が砕ける音~

波音は、チャプチャプとした、さざ波がたてる心地よい音色から、遠く離れた地にまで不気味に響く暴風波浪のうねりの音までさまざまの音を聞かせる。
もともとは、風が起こした波による音であって、風の音のひとつとも思っている。

遠浅の砂浜海岸が延々と続く地に育った私には、白波の砕ける音は、よく耳になじんだ故郷の音ということになるが、この音にも、よく聞くといろいろな変化がある。

強弱の変化はもちろんだが、一番印象的なのは、波が砕けるとき、チューブ状に空気を巻き込むときの音。それが、なお海底地形の加減で左右場所によって音の発生が微妙にずれると、「シュコァッ」という稲妻の音にも似た、空気が裂けるような鋭い音が、左から右へ、もしくは右から左へと、鮮やかに流れてゆくサラウンドな状態を大海原を前に体感できる。

ふと、かつてのチューブラーベルズ(マイク・オールドフィールド/原音のコンセプトとはまるで違う世界感の、恐怖映画”エクソシスト”のテーマに使われて有名になった)の音の世界を思い起こさせる音だった。

砂浜に立ってこの音を聞きながらも、耳元では耳たぶを撫でる風が乾いたノイズを立ててながら、砂を運んでゆく。


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霜柱 / しもばしら

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~霜の柱と書くが、霜とは由来が違う~

時代が移り変わり、日常に歩く道はアスファルトばかりになった。長靴は要らなくなったが、季節感は著しく損なわれた。
土の道を歩けば、春には道端の草が花をつけ、夏にはアリがせわしく働いていた。秋には、いつの間にやらズボンの裾に草の種がつき、冬には水溜りの氷をわざと踏んでパリパリとさせたものだった。

冬の朝は、決まって霜柱を蹴って歩いた。土の中に隠れている結晶を次々と掘り起こすと、それはサクサク、さらさら、と音を立て、朝日を浴びて水晶のようにきらめいた。


我が家のある地方、スイカや落花生の産地である下総台地は、表土の大半が関東ローム層の赤土で覆われている。いや、実際には純粋な自然の表土なら、その上に植物由来の黒土が乗っているはずだが、宅地造成や畑の整備、道路の土など、後から入れた土には、赤土を入れることが多かったからだろう。

この地質には霜柱が出来やすい。粘土層には霜柱は、まず立たないし、海岸の砂浜のような粗い砂にもほとんど出来ない。

霜柱は、霜のように空気中の水分が凍ったものではなく、見てのように、土の粒子の隙間を通って上がってくる水が凍って出来る。そこにあった水分が凍ってしまうと、それを補うように、次々と下から水が上がってくる。雑巾にしみわたる水と同じだ。土なら土の粒子の隙間、雑巾なら繊維の隙間を水が満たそうとする、いわゆる毛管作用というやつである。
赤土は、この毛管作用にほどよく適した粗さ加減だということなのだろう。

霜柱は、このように毛管作用で生成されるから、次々と下のほうから出来ては、既に凍った部分を押し上げてゆく。この力は結構なもので、手で持てる程度の石は簡単に浮く。また、柱の長さは、長いものだと10cmを超えるものも見かけることが少なくなかった。

考えてみると、我が地方は、霜柱を作りやすい赤土が多いというほかにも、霜柱を良く見かける土地柄なのではないだろうかと思う。
霜柱は上に雪が積もっていたのでは、目にすることもない。
また、発生する地表の温度は、氷を生成するために0℃以下でなければならないのは当然として、水が絶えずに供給されなくてはならないのであるから、すぐ下の地中は、水が液体でいられる0℃以上でなければならないはずだ。

雪は元々滅多に見ることがない地方だが、多量に発生する霜柱に、せいぜい冬をを楽しんだものだった。いまはそれも生活の場からは少々遠ざかった感がある。

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虎落笛・もがり笛 ~風の音色2~

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~暗い音色を呼ぶ風景~

電線や垣根などに強風が当たるとき、「ヒュー」というあの高い音、笛のような音を虎落笛という。特に冬の季節風による、暗く悲しげな風景がもっともイメージに合うし、冬の季語にもなっている。

映像として頭に浮かぶのは、鳥取のような砂丘地域で見られる、砂防のヨシズが立てる悲しい音。
砂丘の良く発達した九十九里近隣に住み、砂丘景色も良く目にしているが、なぜか、私の頭には冬の日本海の荒涼とした悲しい景色、そして重く暗い陰鬱な空のイメージが、原風景として染み付いてしまっている。

虎落笛とは、おもしろい字を書く。敵対者や獣の侵入を阻む竹矢来などを古来、虎落と言ったらしく、こうしたものの立てる笛の音に似た音というのが、名前の由来なのであろうか、文字の形、読んだ音の響きとも、非常に寂しさ、悲しさを感じさせる名前である。

虎落笛も空気の作る渦の音。季節風が何かに当たって、その後ろにできる空気の渦が出す音である。
季節風が強ければ強いほど、空気の裂け目は大きく、悲鳴に似た笛の音は大きく泣き叫ぶようになる。

まだまだ、この悲しい音色が似合う季節がしばらく続く。


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風の音色

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~風の力をエネルギーに~

冬の季節風が強い日が続く。太平洋側は晴れて乾燥してきた。
千葉の東端部、もともと常時風の強い地域だが、今日も強い北西風に、風力発電の巨大な風車は勢いよく廻っていた。

風は大気の呼吸。ときにはかすかに、ときには強く音を呼ぶ。
音は空気の振動。あるものは低く、あるものは高く、固有の音色を奏でる。
「風」も「音」も空気の現象であるのだから、そういう意味で、風と音が同類でもあるのだなぁと思い当たる。

風が立てる音は、空気の流れが作る渦の音。
風が吹き抜けるとき、突き当たったものの後ろにできる空気の渦が風の音。大気の傷の立てる音。
また、その風そのものの音のほかにも、風につき動かされる物が立てる「風が呼ぶ音」もある。
雨戸のカタカタとなる音、旗がパタパタと翻る音、樹木の軋む音。
風が作る浪。その浪が立てる音。

思い返してみれば、地上は風の作り出す音色で溢れている。


※「風の名前」については、以前、ここで書いた。


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つめたい雨

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つめたい雨~心傷

降る雨が次第に冷たくなってきた。北国では、とっくに雪の便りが聞こえている。行きなれた関東周辺の林道が雪に閉ざされる日も近い。
それでも、今年の冬の便りは例年になく異常に遅い。

「つめたい雨」。
歌の題名や歌詞にも良く使われる慣用語だが、文字どおりの「温度の低い雨」の意味以外に、雨の生成に関する用語の一つで、ちょっと聞き慣れないかもしれないが、「つめたい雨」というのがある。

雨滴のでき方など、普段はなにげなく暖かい空気と冷たい空気がぶつかって…程度しか考えていないけれども(それだけでは雲は出来ても雨は降らない)、真面目にその過程を説明しようとすると、案外ややこしい。

ややこしいので、その話は後回しだ。
この時期になると雨が降るか雪が降るかは、いまだに私の冬の関心事だ。なにも、科学的にどうこういうのではない。ただ、子供のように雪が見たいだけだ。
雪国の方には想像もつかないだろうが、自宅にいたのでは、年に雪が降るのを見るだけでも片手で数えられるくらいしかない。積るなんていうと1回か2回である。

冬特有の西高東低の気圧配置では、まあ、絶対に雪は降らない。仮にそれでも降るとすれば、猛烈に強力な西高東低型のとき夕方に脊髄山脈からこぼれでた雪雲が通り過ぎるときに、チラチラ程度なのである。温暖な千葉に雪が本格的に降るのは、厳冬の寒さゆえではなく、南海上の特定の緯度を低気圧が通り過ぎるときに、雪か雨かの微妙な状態に限られる。だから、決して冬で最も寒いようなときに降るのではなく、からからの晴天の朝よりずっと温度は高い。

そんなわけで、わが郷土では、冬に降水があるとき、心待ちにしている雪にはなかなかならず、決まったように「つめたい雨」が降る。今日も、関東はしっとり雨模様。けれど雪など降る様子は微塵もない。つめたい雨は、どう見ても寂しい。

~雨の生成、降雨に関する「つめたい雨」のこと~

雨を降らす元である雲は、ごく小さな水滴でできていることは、みなさんご承知のとおりであるが。この水滴は、あまりに微小であって、これを衝突により普通に集めて雨滴の大きさにするには、とてつもない数量を要するし、衝突の頻度は著しく低いので、単に雲粒の偶然の衝突により成長すると説明するのは無理がある。

雨滴のでき方は、大きく分けて二通りある。
ひとつは、上昇した湿度ある空気がその高度ゆえの低温で、0℃以下の状態となり、そこに存在する雲粒から形成が始まる。雲粒のごとく微小な水滴は、0℃以下の過冷却の状態でも存在することができ、雲粒のこの状態を「過冷却」と言うが、これが一気に昇華して氷晶を形成する(そのためには核となる物体が必要となるが、それをどこから得てくるのかはかなり理解困難であるのだが。)。この氷晶さえできれば、あっという間に雨粒の元となる大きな氷結晶が成長する。
こうして出来て降る雨を「氷晶過程に始まる降雨」別名で「つめたい雨」という。日本で降る多くの雨はこのつめたい雨になる。

もう一つは熱帯から中緯度地方までにみられる。「あたたかい雨」。これは、著しく強い上昇気流があると、その中に、なんらかの原因で出来たやや大きな雲粒を元に、通常より衝突頻度の高い雨粒形成をもたらすというものだが、これまた、なんらかの原因でという不明瞭な部分がある。

こんな風にややこしい。あまり単純な説明が出来ないことは自然界には多くある。ほんとうは、きっと、その原理はかなり単純な場合が多いのではないかと思うが、それを完全に解き明かすまで、謎のベールに包まれてしまう。
たかだか、雨がどう降るかも簡単には説明できない。

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かげろう

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~儚い命の象徴~

「かげろう」とは、つかみ所なく揺らいでいて儚いものをイメージする言葉である。
普通に「かげろう」といったなら、「陽炎」のことを指すのが一般的だろう。けれども「かげろう」といわれるものはそればかりではない。
「陽炎」のほかに「糸遊」そして「蜻蛉」又は「蜉蝣」のおおむね3つの「かげろう」がある。

「陽炎」は、空気などの密度の違いで生じるもので、光と影が織り成す、たゆたう光学現象である。夏の路面や屋根の上、煙突やエンジンや焚き火などの熱の周り、水槽の中のヒーターの周りなど、だれでも比較的よく目にするあの揺らぎのことである。

「糸遊(いとゆう)」は「遊糸(ゆうし)」とも言われ、「雪迎え」「雪送り」さらに「かげろい」などともいわれる。これは「雪迎え」の記事に書いたが、蜘蛛の子が広範囲に生息域を広げるべく、尻から出した糸を風に乗せて飛んでゆく生態を指す。

もうひとつ、「蜻蛉」はトンボの古名でヒラヒラと飛ぶ様と陽炎をダブらせたものだろうか。儚いものの象徴として古文によく用いられてきた。また「蜉蝣(ふゆう)」は、「カゲロウ」という昆虫のこと。トンボとやや混乱するが、カゲロウ目の水生昆虫で、カワゲラやトビケラなどと同様に清流に棲息し、1~3年程度の幼虫期を経て、成虫の期間が1日ほど、種によっては数時間という、いかにも儚いものに例えられる生き物である。渓流釣りに通じた方には、馴染みの深い昆虫と思う。

どの「かげろう」をとってみても、やはり、ゆらゆらとして儚げである。

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雪迎え

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~蜘蛛と風…~

晩秋・・・初夏にもたぶんあると思う。あまり知られてはいないが、透けるような糸が風に乗って舞う「雪迎え」という現象がある。
たしか、主に山形方面で使われることばと聞いているが、「雪送り」ともいわれる。これが見られる時期、雪が降る前ぶれや後の風に乗って現れることから、そう呼ばれるらしい。

この現象は、英語でも「ゴサマー」(gossamer=goose summer=ガチョウの夏)と呼ばれ、「エンジェル・ヘアー」というもっとロマンある言葉もある。

この「雪迎え」という幻想的な想像を掻き立てられる現象、実は、生まれて間もない幼蜘蛛の繁殖方法であり、小さな蜘蛛が長い糸を出して風に乗り、これをなびかせて繁殖地を広げてゆく生態である。
誰もが知っているタンポポの種のように、蜘蛛が広い範囲にその生息域を広げてゆく手段として、風というものを利用しているのである。

他にも呼び名があり、「遊糸(ゆうし)」というのは中国語源であり、”かげろう”ともいう(「かげろう」については、次の機会にでも話したい)。
また、伊豆地方で「白ばんば」といえば、井上靖の「しろばんば」※が有名で、一義には雪虫(トドノオオワタムシというアブラムシ科の昆虫のこと)を指すようだが、この蜘蛛の糸のことも「白ばんば」というらしい。

かなり多くの種類のクモにこの生態があるようには聞いているが、実際には滅多に見られるものではない。日中の小春日和から、夕方に風が吹き始めるような11~12月ごろにそのチャンスがあるようだが、今年、まだ一度もその光景を目にすることはなかった。現象の実体だけ捉えれば他愛ないことではあるかもしれないけれど、なんとも夢多い現象であり、心引かれる名前ではないだろうか。

※文学に詳しくない私には、それが雪虫のことか、蜘蛛の糸のことかわからない。

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ドングリの仲間の分類

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~クリもドングリの仲間~

シイの実というのは、ドングリの仲間の中の1グループの通称であって、他のドングリとは明確な区分けのない、観念的な分類というふうに椎の実・しいのみの項に書いたが、詳しく見ていけば、ある程度の分類はある。
(今回はちょっと補足的な説明です)

まずその前に、ドングリ(広義)というグループは、何かというと、ブナ科の植物で、堅い実(堅果「けんか」という)と、それを包むやや堅いカラ(殻斗「かくと」という)をもったグループを広くさす。

ではその分類だが、クリ・ブナ・シイ・ドングリ(狭義)と一般には呼ばれていることと思う。

まず、殻斗の中に堅果が複数入っているものと、単独のものに分ける。

堅果が複数のなかまのうち、2~4個入っているのがクリ(まあ、クリの場合は、そう細かい話をしなくても、誰でもそれ判ると思うけれども)。
いつも2個なのはブナ

単独の仲間のうち、殻斗が堅果を全部包むのがシイ
堅果の基部のみを包むのがドングリ

こんな分類は口で言うと単純そうだけれど、案外見た目だけではわかりづらいのかもしれない。
イガイガはクリ。帽子を被っているのはドングリ、殻が全部に被っているのはシイだけれど、その中味が2つなのはブナ。こう言った方が、本当はわかりやすいだろうか。

さて、こうして分類した4グループを更に細かくみてゆくと、よく見かけるものは次のとおりで、ここでは簡単な説明だけつけておく。
クリ:クリ
ブナ:ブナ(殻斗が堅果より長い)、イヌブナ(殻斗が堅果より短い)
シイ:スダジイ(樹皮が滑らかで実は細い)、ツブラジイ(樹皮がひび割れ実は丸い)
ドングリ:殻斗の模様が輪の様な仲間と鱗状の仲間に分けられる。
     →輪:イチイガシ、シラカシ、アラカシ、アカガシ、ツクバネガシ(一般にカシといわれる仲間)
     →鱗:常緑樹はウバメガシ
        落葉樹のうち殻斗の鱗が長いものと短いものがある。
        →長い:カシワ、クヌギ、アベマキ
        →短い:コナラ、ミズナラ
たぶん、クヌギの仲間を除いたカシやコナラの仲間を一般にはドングリと言うのではないだろうか。

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落葉と常緑

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~冬と対峙する樹木の選択~

1年で生命活動を輪廻させる一年草。多くを切り捨て、必要最低限の生体を残して冬を越す多年草。植物は様々な戦略を巡らせて冬を越す。

我が家の周囲の森林は、植林された杉ばかりの無味な林で、残念ながら、原生の姿は一切とどめていないに等しい環境と言わざるを得ない。ほぼ積雪がないこの地方においては、本来の自然な状態ならば、おそらくはシイやタブノキなどの、常緑の照葉樹林が広く形成されていたことだろう(詳細にみると、照葉樹林帯としては北限か、それよりやや北寄りで、落葉する広葉樹林帯に重なるのだが)。


冬、樹木にとって、水分を多量に消費してしまう葉の負担は大きい。

それでも、とくに温暖な地方では、常緑の照葉樹が育ち、年間通して葉全体を落すことなく、緑の葉を拡げて、夏とほとんど同じ姿のままで冬を越している。

全ての葉を落したからには、春にはまた全ての葉を再生しなければならないのだが、その再生の負担よりも冬を越す負担の方が小さいという選択だろう。
常緑の照葉樹は、一気に葉を更新することはせず、少しずつ葉を更新している。


しかし、よほど暖かくないと、やはり冬に葉を残す負担は大きい。繁殖、生育に非効率な冬の生産活動は切り捨て、活動そのものを最低限にして、しっかり休み、来たるべき春を待つ落葉樹

日本の広い地域で普通に見られる落葉樹の戦略は、彼らの意図や思惑にかかわらず、期せずして、新緑、紅葉という林道におけるハイライトを演出してくれる。いや、日本の四季そのものを彩る最も重要な景観の一つということができるだろう。


さらに寒い高山帯などに行くと、今度は葉を残す負担も担うのは困難だし、春に葉を再生するエネルギー消費も難しいとして、冬の厳しさを、雪の下でじっと耐えるほかないという選択も現れる。
ハイマツやシラビソのような常緑の針葉樹である。


このような変化に富んだ樹木の生態を、これに彩られる風景として捉えるのも楽しみの一つだし、生きる戦略として眺めるのも、また面白い。
まもなくそのキーワードとなった冬が来る。

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朝露

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~枯れ枝と朝のひとしずく~

日増しに秋が深まっていく。
昼が短くなって日射しは弱まり、影が長くなるとともに、目に映る風景から少しずつ色の数が減っていく。
朝の散策に霜を見るのも間もないことだろう。

朝露は霜とほぼ同類で、そこに水分が集まる理屈としては基本的に同じものであり、あとは気温の違いだけ。冷えた飲料をたたえたコップに着く水滴のように、放射冷却によって、周囲の空気より温度の下がった木の葉などに、空気中の水蒸気が凝結するものが「露」であって、春でも夏でも見られる現象である。

その「露」が冬の寒気でその後に凍ったものは、実は厳密には「霜」ではない。これは「凍露」と言い、いったん水蒸気が凝結してから凍結するというように、気体~液体~固体の段階を経る。これに対して、「霜」の場合は、水蒸気が木の葉などの表面に直接昇華して生じる。つまり、液体の段階を経ずに、気体から個体になるわけである。
「露」も「霜」も、空から降るわけではなく、その場で生じている。

さて、露といったら、夏の朝だろうか。
そう、それも、わるくはない、しんみりと青草を濡らす朝露は、夏の暑さにいっときの安らぎのときを演出している。
けれども、秋の朝露はより叙情的な色合いを持っていまいか。
枯れ枝を伝う露のしたたりを、やわらかな朝日にかざしみたとき、その小さなプリズムが放つ七色のきらめきは、深け行く秋にこそ、宙に消えゆきそうな儚さをもっていて美しい気がするのである。

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カラマツの黄葉

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~見渡す限りの黄褐色~

紅葉といえば、紅色、黄色の色とりどりの葉が折りなす色彩美を楽しむのが普通である。完全な一色というのはなかなかお目にかかれない。それも、一つの山のみならず、高所から見渡す限りの山という山が、てっペんから麓まで全て、まっ黄色というのは、そうそうない。

昨日、そんな豪華な風景を望むことができた。
場所は埼玉~長野県境の三国峠。埼玉から長野へ抜ける唯一の車道である中津川林道で越える峠だ。

山を黄一色に染めるのはカラマツの葉。そう、ここを訪れたことのある方はご存知だろう。樹木の植生がこの三国峠を境に一変することを。そして、埼玉側が多様な落葉する広葉樹林であるのに対して、長野側はカラマツ一極相の針葉樹林を形成しているのを。

カラマツは別名、落葉松(ラクヨウシュウ)とも呼ばれる落葉針葉樹である。樹高が50mにも達する高木もあり宮城県から中部地方の亜高山帯に自生分布している日本特産の木である。
耐久性の強い材であることから、寒冷地や高地では広く植林されている。

そんなカラマツの葉が色づいて、単独ないし数本が、空に向かってまっすぐに立ち並らんでいる姿も美しいのだが、青空をバックに、見渡す限りの視界の全てを埋め尽くす、黄一色の山並みには圧倒された。

また、この小さな針のような葉が風に吹かれ、一斉に落ちてくる様は、思わず息を飲む。
横倒しになって落下する葉は、高原の乾いた秋の空気の中を、日差しを浴びてキラキラ光リながら、まるでカラカラと坂道を転がるようにして風に乗って流れ落ちてくるのである。

そうして、葉が降り積もると、林道はすっかりオレンジ色の絨毯敷きに変わる。
この、ふかふかのオレンジロードを走る贅沢は、この上ないひとときである。

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紅葉を楽しむ秋の林道

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陽光に美しい紅葉も映えて

秋の山といえば紅葉に尽きる。渓谷沿いのドライブで紅葉を目で追って楽しむだけもよし、ハイキングで心地よく汗もかいての紅葉満喫も最高だ。
しかし、自分は「人混みご免」な性格なので、メジャーなところは今ひとつであるのと、ちょっと横着な気持ちもあって、近頃の紅葉は専ら林道で楽しんでいる。

なにしろ、林道ではかなりの深山に入り込むことができるし、人も滅多に入らない。場所を選べば、それこそ「手軽に紅葉一山ひとり占め」ができてしまうのが魅力である。

関東甲信越地方周辺の標高のある地域の紅葉は、平年並みなら10月20日~25日あたりを目安に考えている。今年は9月が暖かかったし、少し平年より遅いだろうか。

房総(地元)などではずっと遅くて11月に入るのだが、紅葉の規模がずっと小さい。これは南関東では一本一本の木の紅葉の質が悪いというよりも、紅葉しない常緑樹が多いことが一番の要因だ。いかんせん通年の気候差による植生の違いであるから、どうしようもない。

関東と甲信越境や東北地方の山々では、麓から山頂まで、高度差のある山では順次に、ちょっとした山なら丸ごと、雄大な紅葉風景を堪能できる。真冬にはほとんどすべての葉が落ちてしまう山である。すべての葉という葉が赤に黄色に染まりゆくさまは、本当に息を呑むほどだ。

そろそろ、来週末あたりから、見ごろになってくるであろう秋の山に出かけてみたい。

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ギンナン

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~これも秋の味覚の一つ~

その匂いだけはちょっといただけないが、秋のこの時期にお世話になるのがギンナンである。
イチョウの果実の種を食すが、誰もイチョウの実とかイチョウの種とは言わない。
これを単に炒って食べるのも美味しいし、茶碗蒸も最高だ。

逆に「銀杏」と書いて「イチョウ」と読む場合もあるのもなにか不可解だが、「銀杏」はもともとの唐音で「インキャウ」と読み、その音が変化して「イチョウ」になったようである。
他に公孫樹とも書かれる事が多い。

シイの実のように持ち歩いたりはしなかったけれども、ギンナンもよく拾った。手が荒れるというし、それよりもあのにおいの物体を手でつかむ気には到底なれないので、箸やビニール袋に手を入れて拾ったものだ。まあ、今でも機会があれば近所の神社で拾い集めては美味しくいただいている。

これからの紅葉の季節、黄色い葉は一際目立つ。神社の境内に特に多いが、林道沿いにも見かけることは多い。枝を一杯に拡げ、そのすべての枝に扇型の黄色い葉を密生させるイチョウの道を行くのは心地よい。(ちなみに、モミジなどの赤い紅葉はアントシアン。イチョウなどの黄色い紅葉はカロチノイドの発色である。)
しかし、イチョウの雌株にはギンナンが実る。そして木の下には黄色い落葉と混ざってギンナンも落ちているが、これを踏みつけて車で走ると、しばし臭くて閉口、いや閉鼻する。

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彩雲~秋の林道

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~色づいた「かなとこぐも」一つの季節の終焉~

異例に暑かった今年の夏もすっかり過去のものになりつつある。残暑ももうほとんどないだろう。
数日前の残暑の夕方、南東の遠い空に「かなとこぐも」がかかっていた。積乱雲の頭の部分である。立ち上った煙が天井に突き当たって四方に拡散してゆくように、著しい上昇気流をもつ積乱雲のてっぺんが、対流圏の境界まで達した状態である。

見かけた時間にもよるだろう。けれども真夏のそれと違って、西日に彩られたその雲は、もはや真夏のものとは違う雲に見えた。


これから季節は一気に冬に向かい、また1つのサイクルを終えてゆく。
見上げる雲は涼しげに、空は抜けて深く青い。特に夕空が美しい季節ではあるけれども、どこか寂しくせきたてられるものを感じる。

そしてまた、秋の林道も、美しくもあり、寂しくもある。少しづつ木の葉は色を増し、やがて山全体が燃えるように染まってゆくが、一方で色づいた葉は、カサカサと侘しい音を立て、確実に一枚づつ地に落ちてゆき、やがて最後は、幹と枝のみ残した姿で雪を待つ。

新緑の季節と共に、林道が最も素晴らしい景観を呈する頃となるけれど、夕日の残照に一瞬の彩りを添えられた「かなとこぐも」のように、美しくあっても、力強さは感じられない。

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椎の実・しいのみ

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~馴染み深いスダジイの実~

秋といえば、シイの実拾いが一番の楽しみだった。栗より椎だった。

理由はと問われても、よくわからないが、採ったシイの実を炒った香りや美味しさもさることながら、生のままポケットに何粒か忍ばせて、時折「ポリポリ」とやっていたのが子供の頃の秋の常だった。

シイの実というのは、ドングリの仲間の中の1グループの通称であって、他のドングリとは明確な区分けのない、観念的な分類であろうと思うが(蛾と蝶、クジラとイルカのように)、通常、タン二ンが少なくて渋味のないものを指して呼ばれている。

関東で一番、馴染みがあるのは、スダジイの実になるだろうか。スダジイは、ひび割れた樹皮が特徴で、冬も緑の葉を残す常緑樹である。公園や学校から家の庭木としてもよく植樹されている。
特に神社に植えられたものなどは大樹が多く、よく枝を拡げていてシイの実も多い。もちろん房総などの低山には、その姿も多く、ときには大群生して生えている。

このスダジイは春にささやかな花をつけ、新緑の時期は少々寂しい常緑樹林を白っぽく染めるが、花の蜜は匂いが悪いといい、養蜂家からは嫌われるらしい。

肝心の実の方であるが、これは花の咲いた年に熟すのではなく、開花から1年半かけて、翌年の秋に約1.5cmくらいの、長めの黒っぽい実となる。
実は、外皮に守られて育つが、熟すと外皮が先から裂けて、ポロポロと地に落ちる。

もうすぐシーズンが来る。拾ったシイの実を入れた袋のザクザクとした感触と重さが今から楽しみだ。

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野分

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~風の名前シリーズ~

「のわき」、「のわけ」ともいう。
主に秋に稲刈の時期に吹く外洋からの強風をこう呼ぶ。つまりは台風に関連した風のことになるわけで、古来の文学、文献にもしばしば登場する「風の名前」である。

名前の由来は読んで字のごとく、野の草木を吹き分けてゆく強い風というような意味であろう。
同じ草原を渡る風でも、特に秋の色がついた草木が、強風に押し倒されんばかりになびいてそよぐ様は、野分という名前にぴったりな気がする。
台風の通り過ぎた後に、倒れかかった稲穂の様も野分という名がなるほどといわしめる。
もっとも、稲作農家の方には、そんな悠長な話をしていたら怒られてしまうが。

台風は熱帯域の海洋で生まれるが、台風によってもたらされる野分は、少し違ったイメージ、海よりは山の景色を思い起こす。

秋の寂しさもひとしきりな山肌の道を行くとき、山の草木も野分に吹かれ、草という草がすべて同じ方向になびき、倒れこんでいる様を見るにつけ、南洋で発生したエネルギーが、遠くこの山奥へと作用をもたらすという力の循環に不思議を感じる。地球規模の大気循環に畏怖の念を抱くといっては少し大げさであるが。

今夜は台風18号の影響で、台風の中心からかなり離れた南関東も、すこぶる風が強くて寝苦しい夜を迎えている。
ついでながら、少し以外かもしれないが、南関東では、年間を通じると、梅雨の雨量よりこの台風と秋雨全線がもたらす秋の雨量のほうが多い。

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コスモス

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~秋桜という和名をもつ異国の花~

コスモスという花は、秋の訪れを最も感じさせてくれる花といってもいいほどに、この日本の山野に行き渡り、根付いている。
まだ真夏のような日差しが残るなかにも、どこか涼しげな風が吹き始めたころ、その風に揺られてそよぐコスモスのある風景。それは、まさしく日本の秋というに相応しい風景である。

コスモスはメキシコの高原地帯に自生していた植物で、18世紀後半にスペインの植物調査隊から本国の神父の元に種子が送られたのを始めに、日本には江戸末期に持ち込まれたという。今では、欧州や日本のほか、世界中の様々な地方で親しまれているワールドワイドな花である。

そして、このコスモスという名前。先の種子を送られたスペインの神父が栽培してつけた名であるようだが、「宇宙」を現す「コスモス」であるのか。この花から何を連想し、どんな想いでそう呼んだのか私は知らないが、伸び伸びと広大で爽快な草原と、そこ一面に個々の花が色を添え、吹き渡る風に揺れ動くこの花を現す名として選ばれたもの、そう言ってもおかしくはないだろう。

日本では、秋桜(アキザクラ)、大春車菊(オオハルシャギク)とも呼ばれていて、日本古来の花同様に親しまれているが、今のように全国に広がったのは、明治後期に全国の小学校へ文部省から配付されたことによるという。

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台風シーズン

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宇宙から見下ろす台風は、地球という星に特徴的な紋様といえる

台風がやって来る季節になってきた
世間知らずの子供の頃は、日常と違う気象というものに喜びを感じたものだが、いい歳をして、そうとばかりは言っていられない。

林道は、急峻な山間部を走り、雨による影響が特に大きい。舗装道では、周囲の影響は別として道路自体は確保されてやすいが、ダートでは路面が沢そのものになる。本当に激しい雨が降る中の林道走行は、それは恐ろしいもので、茶色の濁流がドウドウと流れ落ちる中を、激流下りのように車を運ばなければならなくなる。安全そうな一箇所に止まって避難していたほうが安全な気もするが、路線がいつ途中分断され、取り残されるかも判らないという心配もあって、どちらがいいのかは結論を見ないとわからない。ともかく、そういう天候となることが判っていれば、極力踏み入れるべき所ではないのは確かだ。

台風後の林道へ入ってみると、その想像以上の影響に驚かされることが多い。自分の知っていたまっ平らにならされていたダート道が、深い溝を縦横にめぐらせたようになり、とても道とはいえないものになっていたり、もっとひどければ、上からの土砂に路面が完全に埋まり、又は路面が崖下に崩れ去ってしまい、道自体がなくなっていることでさえ珍しいことでないかもしれない。

舗装の路面というのは、一見よさげに見えるが、道自体が沢となったり、雨水を路面の土が吸水したりしない分、ダート道が豪雨から受けるエネルギーと同等の物を、周囲の環境へパスしてしまうのであるから、山全体の環境を考えれば、いうまでもなく好ましいものではない。

台風のもう一つの顔、風であるが、山ではこれがまた、我々平地に住み慣れたものには見慣れない、聞きなれない恐ろしい状況をもたらす。一本の木でも風がをそれを鞭打って吹き抜ける時の音というのは相当のものであるが、山全体がこれを揺るがすかのような台風に晒されたとき、その姿・その音は恐ろしいばかりである。

さて、このシーズン、台風がどのくらい襲ってくるのだろうか。熱帯の西太平洋上で生まれる強い熱帯性低気圧である台風は、多量の海水を真水に蒸留して雨として再び地に降り注ぎ、国土に豊かさも運びこんでくれるという点で被害ばかりではない面があるにせよ、その被害は極力、少ないものにとどめたいものだ。

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秋の足音は山の上から

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~ススキの花~

数日前、信州の林道を走った。ゆく夏を惜しみながらも、残暑を避けて涼を得るために。
山々は、いまだ草木が隆盛を極めて、昆虫は飛び交い、日差しは相変わらず鮮烈な熱を帯びて肌を照らす。
それでも、どこか違う。
これから、頂点に向かって上昇してゆく快活な躍動感はない。静寂を終点にした季節の移ろいがはじまる足音が聞こえてきた。

山の夏の訪れは遅い、平地で2ヶ月も前に咲いていたアジサイの花が、いまどき咲き始めたりしている。
しかし、それと同時に、既に秋が忍び寄ってきているのである。道端にコスモスの花が咲き、見晴らしのよい尾根にススキの穂が花をつけていた。
赤トンボは、夏の間に山で涼をとって、秋に平地へ下ってゆくが、今のこの時期は、最も山で数多くの赤トンボを見ることのできる季節である。林道沿いに歩を進めるとき、右を見ても、左を見ても、赤とんぼが視界からその姿を隠すことがなかった。

特別に高い山でなくてもよい。数百メートルの標高を持つ山でいい。そこに立ち、ちょっとだけでも感性を外界の空気に向けるだけで、容易に移り変わる季節の変化を生身で感じ取ることができるだろう。

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飛行機雲

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~ひこうきぐも・白い一筋~

林道が峠に差し掛かり、木々に覆われていた空がぱっと開け、青い空が頭上に広がるとき、そこに一筋の飛行機雲が望まれた。
飛行機という極めて象徴的な人工物も、ときに自然の中で自然の造形を為しているという姿に、少しほっとする思いを感じる。

雲というのは、簡単に言うと、冷えた飲料の入ったコップに付く水滴のように、暖かい空気に含まれていた水蒸気(透明)が、冷やされて水または氷となって姿を現すものである。
ある温度の空気が、その中に保持できる水蒸気量(飽和水蒸気量といいます)というのは、温度が高いほうが多く、逆に冷たい空気には、少ししか水蒸気を保持できないわけだから、水蒸気をたっぷり含んだ空気が冷やされると、水滴・氷粒として姿を現してしまうわけで、これが雲となるわけである。
地面で温められた湿度の高い空気が、風で山を登ってゆくとそういう理由で雲になるし、水蒸気をたっぷり含んだ息を冬の朝に吐き出すと真っ白になるのも同じである。

高い空を切り裂くように、青空に白線が引かれてゆく飛行機雲は、飛行機が気温の低い高い空度を飛ぶとき、ジェットエンジンから燃焼ガスと共に吐き出される水蒸気が、周りの冷たい空気に冷やされて雲になる場合や、飛行機の機体が生む空気の渦などが原因になる場合が通常である。
実際に飛行機が飛んでいる位置の温度が-29℃以下でなければ(夏でも可)、飛行機雲は出来ないということで、実際、飛行機雲のよく現れるときというのは、どちらかというと冷たい空気が上空に流れ込んだときが多く、長くてよく発達した飛行機雲がたくさん現れるのを見ると、ああ、寒気が来ているんだなあと感じることも多い。

飛行機雲は、現れてすぐ蒸発するように消えていってしまう場合と、どんどん太く発達して行く場合があるが、雲が出来る条件が揃いかけているところに、飛行機によるきっかけが与えられた場合には、どんどん発達してゆくというようなところなのだろうか。空一面が飛行雲を作りやすい環境のとき、あちらにもこちらにも出来る飛行機雲とその成長を見上げるのは楽しい。

なお、飛行機雲は前に書いた雲の分類方法の十種雲形では扱われない変種・現象である。

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入道雲~積乱雲

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~夏の象徴~

夏の空といえば、この雲を思い浮かべずして、他に何を思い浮かべるだろうかというほど、象徴的な入道雲の存在である。

照りつける夏の太陽によって、どんどん上昇する水蒸気によって形作られる積雲が成長し、遂にはその頂きが成層圏にまで達するとともに、強い雨と雷をもたらすのが積乱雲。

積乱雲は、ときに河原などでのアウトドアの楽しみに災害をもたらすこともある危険を伴う。また、山間部においては、積乱雲の危険性は平野部に比べて更に増す。積乱雲がもたらす大雨と共に、落雷の危険性がずっと大きくなるのだ。

しかし、この雲の姿はいかにも夏らしいものだし、この雲が上空を走り抜けてゆくときの突然の雨-夕立は、夏の風物詩として欠かすことが出来ないものである。

青い空に入道雲を見上げるとき、神々しい偉容を誇る山岳を見上げるときに感じるものに似た感覚を受けることはないだろうか。

毎度、繰り返すように述べているが、私が生まれ育ち今も住む地域は、周りを隅から隈まで眺め回しても、一つとして山らしい山を見ることが出来ないところである。そして、そのことが、山に対する憧れを生んでいると共に、高さへの憧れとして入道雲に対する一種の畏敬のような気持ちを生むのかもしれない。


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ハスの花・夢

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吸い込まれてしまいそうな花

地元である房総の海からの帰り道、いつものように林道を走った折に、その入口に蓮田があって足を止めた。
丸い葉を一面に拡げ、その上に大きな花を開くハス。
あのピンクの大きな花は一瞬息が止まるような美しさと、なにか得体の知れない空間に繋がっているような不思議な存在感を持っている。

花の後に残される、あのジョウロやシャワーの先のような、見方によれば蜂の巣のような花床も顕著な形で面白いし、中に空洞のある根茎、すなわちレンコンを持つ根も相当に特殊なものだと思う。

あのレンコンの空洞は、地中の大量のバクテリアの呼吸によって被る酸素不足を補うために、葉から空中の酸素を取り込んで溜め込み、そこから酸素を体全体に送るための通気孔だという。そういえば、丸い葉も一面が細かい毛で覆われていて、たとえ水を被ってもそれを水滴にして転がり落としてしまうことなど、その吸気孔を水で塞がせないためのものといえるのだろうか。

真夏の真昼。太陽が容赦なく照りつけ、それこそ陽炎の中で微動だにしないような空間にぼんやりとしたオーラに包まれて咲き誇っていたハスの花。じっと見ていると、フッと吸い込まれて意識さえも吸い込まれてしまうような感覚に襲われた。
一度吸い込まれたら、百年も千年も目覚めることがないような、甘美な夢の世界の向こう側へ行ってしまいそうな・・・

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モウセンゴケ

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湿原に潜む奇異な植物

食虫植物という名の持つ響きは、なにか怪しさとともに、心のどこかを騒がすものがある。
昆虫を捕らえ、それを消化して栄養素を吸収する姿は、実際のものを見たら、それほど綺麗なものではないが、静的であり、通常は動物の栄養源となるはずの植物が、逆に能動的な動きをして動物を捕獲するという意外性が心を沸き立たせるのだろうか。

先日、会津の大窪林道をを経由して駒止湿原を訪れた。この湿原に訪れたのは6年ぶりくらいだっただろうか、高原に広がる清楚で大きな湿原は、そこに立ち景色を眺めているだけでも心休まるし、また、高山湿原に分布する様々な植物の姿を見せてくれて、それらの観察も非常に楽しみだ。
この時期、ニッコウキスゲなどの目立った花も見られたが、背が低く、よく見ないと、ともすれば見過ごしがちなモウセンゴケが最も印象に残った。

モウセンゴケはロゼット状に葉を広げているが、その葉に真っ赤な線毛が密生し、集まって生えそろったところなどは、その名のとおり毛氈を敷いたようだ。
高原の日当たりがよい湿原に分布し、葉から生えた線毛の先から粘液を出して待ち受け、小虫がこれに止まると粘液の働きで動きが取れなくなる。
捕らえられた虫は線毛と葉に包み込まれ、やがて分泌される消化酵素によって消化されてしまうというわけだ。

湿原の木道に寝そべって、間近でモウセンゴケを観察した。線毛の先に出された粘液の一つ一つが、丸く光る球体となって、まるで朝露をまとった葉のように、透明感を伴いキラキラと輝いていた。

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続・梅雨入り

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~デジカメを見ていて、ふと思う~

前記事で自然がそう簡単に割り切れないと言いはしたが・・・

自然の現象には、単純明快な法則、数式で簡単に表わせるものから、大まかな規則性はあっても、はたして数値化が可能な法則があるのかどうかわからないものまである。

そのままでもいい気もするのだが、人は、そうした不可解と思われる現象の基礎となる、微小で繊細で気が遠くなるほどの数量のデータの一つ一つを解き明かし、その一つ一つのすべてをいつしか紡ぎ合わせて、デジタルによる擬似アナログを完成させてしまうのかもしれない。

自然の現象と言うものは、そう簡単にはデジタル化できないが、デジタル力メラの高画質化を見ていて、「梅雨入り」という話題からは、ちょっと飛躍しすぎたけれど、そんなことを感じてしまった。そういえば、CDというメディアの登場時にも似たようなことを感じた気もする。

微小擬似の圧倒的数量の積み重ねによる近似は、人の感覚は充足させてしまいつつあるが、はたして、自然のシステムの中でも、本物と同じ役割をまっとうしてゆくことができるのだろうか。

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梅雨入り

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~梅雨といえば~

関東地方も本格的に雨季に入ってきたようだ。
梅雨入りという気象用語はあまり好まない。いや、文学的に使うことには何ら抵抗ないのだが。

梅雨入宣言というのが好ましく感じない。この時期、はっきりした雨季があるのは間違いないけれど、そもそも混沌とした気象現象の中でも、かなり曖昧さのある雨季に「始めの日」も「終りの日」もないだろう。春と言われて、いつから春で、いつまで春なのかがないように。
もちろん、気象関係者は、そんなことは百も承知で、単に一般的生活を送る人の利便を図る目的と、気象データの集積のために設定したものと思う。
しかし、現実にはかなり一人歩きしてしまって、まるで今日から夏休みとかいうごとくに、きっちりしたものと思い込んだ人もいるくらいだ。
あげくは、気象関係者に真面目に文句を言うほど。

気象ついでに思うことだが、天気予報についても、あくまで自己判断の一つの材料どまりと考えてもらえればと感じる。
混沌とした自然現象は、そう簡単には答えにたどり着かないと考えるベきだろう。

自然はどこまでもおおらかだし、それに接する我々も、常に寛容にゆったりと構えて受け入れる余裕が欲しい。

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林道で星を見る

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~夏といえば、やはりさそり座~

暗い空は極めて少ない

星を見るのは大好きだ。ただ漠然と何も考えず眺めてもよし、あの星は赤色巨星特有の脈動変光星で今夜あたりはやけに暗く見えるなど、まっとうに見るのもまた楽しい。

残念ながら、我々の世代では、子供の頃からもう既に空はさして暗くはなかった。小学生の時分にも光害という言葉が叫ばれていた。

山の一軒屋の温泉に泊まり、夜の散歩をしてみる。少し夜露が落ちかけた草の上に腰を下ろして見上げる先には、しばし息が止まってしまうほどの無数の星が降ってくる。光の束を投げかけられて目が廻ってしまうような感覚に陥る。

それほどの星天井は、ごくたまに好機に恵まれれて見ることがある程度だけれど、あれが本来の夜の宙。

昨年だったか、山梨の大ダル林道を巡っていたとき、その一角にいかにも星の観察に適した広場があった。初夏だったか、まだまだ日の入りまで相当の時間はあった。
それでも2組くらいか、既に望遠鏡・カメラのセッティングを終えて一息入れている姿が目にとまった。

そこで一緒に、いや、その方々と交友を持ちたいと思ったわけではない。同じように望遠鏡を構えて、夜の訪れをただ待ちたいと思ったのだった。

それにしても、自宅から手軽なところにこのような環境があったらどんなにいいかしれない。少々距離があっても、望遠鏡の光軸がずれないよう十分に処置して出かけてみたいものだ。

今夕は、望遠鏡こそ持っていかないが、群馬の林道で降るような星空を楽しむことができそうだ。

世界中の星空
ここの、プラネタリウム・ソフト「Stella Theater Pro 」(シェア・ウエア)はオススメです。愛用してます。

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月の暗い面

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~Dark side of the Moon~

タ空に細い月の鎌が掛かっていた。
Web上でも何回か書いた覚えがあるが、月は上弦までの、この形でいるときがとくに好きな時期だ。

いまさらながらではあるが、考えてみれば、地球から見た月と、月から見た地球は、ちょうどダークサイドとライトサイドが表裏相対になっているわけで、月が細く見えるときには、月面の常時漆黒の空(大気がないから)には、丸々と太った地球が浮かんでいることになる。

月が細いときには、恐らくはまぶしい程のその地球の光を受け、夜の月面=地球から見た暗い面は、うっすらと照らしだされてよく見える。
いわゆる「地球照」という現象であるが、毎月、月が細くなると、これを楽しみに眺めている。

逆に月面から見た地球。いつか見たいものの5本の指には碓実に入る光景だ。
満月より数倍大きく、数倍明るい青い星を眺める日が、やって来てくれるだろうか。

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雨の森を往く

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幻想的な空間に力強さも感じる

四輪駆動車で走っている限りは、雨でも林道は楽しめる。
時節は初夏が最も旬といえるかもしれない。
十分に生え揃った青葉が、滴る雨に光り、森全体がしっとりとして、生き生きとした躍動を感じるからだろう。

もちろん、通行に支障が出るような大雨は別だが、ほどよい湿りなら砂埃も立たなくて、むしろ気持ちがいい。車は泥で汚れるけれども、それは天気にかかわらず元より同じである。

雨が心地よい林道は、沢沿いの道。やはり、その緑がより一層鮮やかに映えるからだろうか。
緑のまっただ中に、一度身を置いてみることをお勧めしたい。

一方、いつもはちょっと殺風景な、杉の林も意外に悪くない。雨の日の杉林は、特にその空気に力を感じるのは、いかなる理由からだろうか。
空気そのものに凛とした緊張感があり、まっすぐに上方へ向って伸びたその幹の直線が、緊張感を際立たせている。

霧をまとった杉の森は、さらに深遠な空間を生み出す。つい先日に立ち寄った、八方ヶ原(栃木県)に近い山の社に、まさに神木とでも言いたくなるような荘厳な杉の大樹の姿を見た。

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雲の影

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~八方尾根より~

「雲の影」、ピンク・フロイドのアルバムの和名タイトルにも同名のものがあったが、好きなものの一つである。

それも、新緑を迎えたいまの季節が最もいい。眺めるのは、もちろん林道の峠など、見睛らしのよい所からになる。

まぶしいほどに青く明るい空の下、視界いっぱいに続く黄緑に、ブラシで白やピンクの絵の具を吹きかけたような、微妙な色合いの5月の山なみ。これだけでも十分に素晴らしいが、さらに加えることができるなら、爽快でいて潤いを秘めた風に流れてゆく「わた雲」が、地上に落とした影を山なみに滑らせてゆく情景は、私がもつ5月のイメージそのものとなる。

比較対象のない平地の大空に浮かんだ小さな「わた雲」は、ポッカリと浮いてはいるようだが、それでもどこか平面的でつかみどころがない。明るすぎる空にあっては、ときに陽光が織りなす虚像かとも思えてしまうほどにはかなげでもある。
しかし、その雲が目の前に広がった起伏ある景色に影を落したとき、雲の実体と合わせ見ることで、思ったより低空、そして、思ったより小さく、けれどもしっかりとした実像として目に映る。

晴天の象徴でもある「わた雲」=積雲は、通常、数百メートルから3,000メートルくらいの高さにあらわれる誰にでも知られた雲。雲の底はたいてい平たく、上部はムクムクとしている。晴天につきものとはいっても、ときには成長して積乱雲にまで発達することもあって侮れない。

この積雲が青い空にいくつも並んで、初夏の風に流されて行く様を眺めていると、時のたつのも忘れるようだし、また、山道で視界が下に開けたとき、そこに、その複数の積雲の影が流れているのをみていると、海底に巨大な魚の影が映っているような、そんな想像もかきたてて、すっかり見入ってしまう。

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カヌーの楽しみ

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雪解けの水が山を映す

連休、今年に入って初めてカヌーを持ち出した
やっと水が温んだからというのではなく、気温が上がってきたのに誘われた。

山を走っていると、時折、息を呑むような湖沼に出会うことがある。
緑の木々に包まれて、ひっそりと波ひとつ立てない湖面、空の青を集めたコバルトブルーの絵の具で染めたような湖水、背後の山を逆さまに映し出した鏡のような湖面など、時間や季節によっても様々な姿を見せてくれる。

穏やかな湖面を、ほとんど音なく船体を滑らせてゆくカナディアン・カヌーは、そんな湖水に漕ぎ出して行くのにぴったりのスタイル。私の使いどころは、常にそうした静水で、激しい流れの川を下ることはいまのところ想定外。

今回は新緑と残雪を湖面に映した湖水。芽が開いたばかりで若々しい木々と、その中でさえずる野鳥たちの声の中、「チャラッ・チャラッ」っと水を掻き分けるパドル音だけ残して、カヌーが進む。
湖沼の周辺に植物たちの花がいっせいに開く季節、トンボが飛び交う季節、紅葉の季節。林道を楽しむ要素と重なって、これからも各地の湖沼を味わうのが、1つの楽しみである。


※カヌーとボートの違いはお解かりだろうか。念のため、簡単に触れておく。
ボートというのは、広い意味では比較的小さな船のことを指して使われる。漢字で書いたら舟になるのだろうか。カヌーもこの中には含まれるだろうけれど、ここでお聞きしたのはもっと狭い意味のボート。簡単に言えば、公園の池のボートとカヌーの違いである。

ボートを漕いだ時のことを想像してもらうと、船体に取り付いたオールを体から離れたところから手元に引き寄せる動作を繰り返し、舟が体の向きに対して後ろに向かって進むのが思い起こされるだろう。対してカヌーは、手に持ったパドルで前から後に水を漕いで、体の向きに対して正面に舟の進行方向がある。

この動作の違いで一番のポイントが、水を漕ぐオールないしパドルという、動力を水に伝える部分。カヌーのパドルはあくまで手の延長に過ぎず、漕ぎ手の1の力を水に1伝えるが、ボートのオールは固定部分を使ったテコになっていて、漕ぎ手の1の力を水に2倍にして伝える。

ボートのほうが力の伝達、動力としては優れるが、手の延長であるカヌーのパドルは、逆に様々なアクションをこなすことができるので、舟を真横にスライドさせることもできるなど、小回りは効く。そして何より私の使いどころのフィールドにおいては、常に前を見て漕ぎ進めることは大きな要素である。

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山吹色

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ヤマブキの花が盛りの頃

先の週末、八溝山の林道脇では、ヤマブキの黄色い花が、小枝をしならせるほどほどに咲いていた。
ヤマブキの花は、桜のような形状の5弁の花びらを持つ標準的なかたちの花で、季節感も伴って、山中で目立つその色が特にいい。

幼ない頃からクレヨンでなじみのある色。山吹色。
幼少期には、とかくありがちだが、幼稚園で絵を書きながら覚えた「山吹色」は、幼稚園児には「やまぶきいろ」という音しか判らないので、「やまぶ・黄色」なのかなあ、などというカワイイ認識だった。そして、「やまぶ」って何だろう?そんな疑問を抱いたりしていたところなども自分らしくて笑ってしまう。

私は、どちらかというと、くっきりとした色使いのコントラストが好みなので、WEB上でもこの山吹色から橙色にかけての色を良く多用する。
主に暗い背景色に山吹色のテキスト。
うす暗い山道に、ちりばめられた豆電球のように咲く山吹の花は、なんとなく、この暗背景色とテキストの組み合わせと似ているような、そんな手前勝手な連想をしたりしている。

「やまぶきいろ」といえば、もうひとつ。大判、小判の類を指すことがある。私にはあまり縁がないはずなのだけれど、どうも大判、小判に対して隠語を使うとなると「悪代官と越後屋」の怪しい関係を連想してしまうので、この話しはこの辺までにしたい・・・

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ブナの林

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~若葉のトンネルを逝く~

いよいよ新緑の季節がやってくる。
山で一番好きな季節。特にブナの林道はたまらない。

新緑の季節のブナ林を走り抜けるとき、まさしく緑のトンネルをくぐるごとく、右も左も黄緑色。まだ柔らかい葉が陽光を透かして、また、隙間からちらりと光のスポットを道に落とす。

一度だけ見たことがある忘れられない光景。
部分日食の時をブナの林で迎えことがある。ブナと日食?まったく関係はないようだが、確かに直接関係はなく偶然だった。
ブナの若葉の隙間からこぼれた光のスポットは、普段なら地に丸い模様を描くけれども、そのときは、無数の月を映し出した。そう、ピンホールカメラの原理、欠けた太陽の姿そのままを地に映し出した。
幻想的な地に散りばめられた月模様。

ブナの森は北は北海道南部が北限で、南は鹿児島まで分布している純粋な日本の温帯の森である。
特に雪の多い東北や日本海側では、他の木々に比べて生存環境に適合していて競争に優ってブナ帯を形成している。

高さは20mより高くなり、直径は太いもので1mにもなることがある。むろん、そういう元気なブナは近年の環境ではあまりお目にかからないが、林道で奥地を走ると、たまにあの灰白色で滑らかな独特の幹をもった素晴らしい大きさのブナに出会うこともある。

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アミガサタケ

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~林道からのお土産~

今日は絶好の行楽日和、今週末は人出も好調なことだろう。
行楽日和ではあったのだが、不本意ながらそれは明日に回して、今日は先週の群馬の山での車の汚れを落とさなければならない。
いつも、林道をタップリと走った後の洗車では、車の下回りからバケツ半分近い泥が出る。泥と言っても汚れ物ではなく、砂のようなきれいなものだ。

いつも自宅前の道路で洗車するので、その砂をそのまま放置するわけにはいかない。バケツに拾い集めて自宅内に捨てる。砂の質は走ってきた林道によってかなり違いがあり、つまらぬことながら、最近は少々目が肥えてきた。

さて、その砂だが、きまって自宅倉庫の裏手の庭に撒くのだが、今日も洗車後に砂を撒きに行くと、おや?
スモールサイズのつくしのようなものが地面から生えているではないか。近づいてよくよく見ると、キノコの「アミガサタケ」

このキノコは、春に顕著で雑木林や庭木の下などに生え、欧米では食用にするが、毒がないわけではなく、生で食べてはいけないらしい。しかし、フランスでは「モリーユ」という一級の食材に数えられると聞く。かごの目のような頭部の中は空洞で特徴的ですぐ見分けられる。

このキノコ、決して都市部や人家で見られないものではなく、むしろ身近なものではあるのだけれども、我が家の庭では今までまったく見たことはなかった。

思うに、毎週のごとく林道から運んでくる砂の中に、このキノコの胞子が混ざっていたものではなかろうか。そう、あの位置は、たぶん房総の林道を走った砂を捨てた場所・・・

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海の名前

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~水のない晴れた海~

昨晩はひどく明るい夜だった。
見上げれば、その青白く冷たい光が、網膜を射られたかと錯覚するほどの鋭角かつ圧倒的な光量をもって、中天から熱を持たない光線を地上に照射していた。
まぶしいほどの満月は、ときとして狂気を感じさせる。また、なぜか、満開の桜にも似たような狂気を感じることがある。どこかでそんなイメージの刷り込みを受けたのかもしれない。

昨晩の月は満月、今晩は十六夜月となる。まぶしい月も、真っ白な円盤ではなくて、明暗の模様がある。特に白く光り輝く部分は、地上の地形に例えれば山地や高原。それに比べてみると暗く、青黒くも感じられる部分は海洋底。よく知られるように「うみ」と呼ばれている部分である。

地質成分による反射率の違いで、明暗が分かれているが、その各々の地形が形成された年代も、山は古くて海はそれより新しい。どうやってこれらの地形が形成されたのかは興味もあり、諸説乱立するところでもあるが、海はほぼ溶岩が噴出した物とされている。また、不思議なことに、いつも地球に同じ側を向けている月にあって、その裏側は地上から見ることはないわけだが、そこにはほとんど海がないのである(外縁部を除き小さめの海が1つのみ)。

月の海は、その形状が、明暗によりはっきりと裸眼でも見て取れるため、世界中の国や民族によって、古くから様々なものに例えられてきた。
日本なら餅を搗くウサギがもっとも一般だが、「カニ」や「女性の横顔」などという例えも、そう思いながら眺めると、なるほどと頷けるところがあって、感心することもある。

さて、この月の「海」と称される地形部分は、水がなく晴れた海・・・乾いた海である。けれども、なんとはなしにイメージはぴったりである。そして、その個々の名前そのものもなかなか悪くない。
アポロ11号により人類が初めて月面に降り立ったのが「静かの海」、ほかに「豊かの海」や「晴の海」「雨の海」「危難の海」そして「嵐の大洋」などなどである。
ほかにも、海の一部分の名前として「虹の入江」であったり「霧の浅瀬」であったりと、総じていずれもロマンチックな名前が付けられているといえる。このあたり、やはり月というものに対する、古来からの人々が持つイメージから来るものなのだろうと思われる。

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スミレいろ

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人家周りでも普通に見られるタチツボスミレ

スミレは色がいい、白、濃紫、赤紫から空色まで多様な色があり、各々が感動を与え得る色を競う。
なかにあっても、陽の落ちた直後の空の中程あたりのような、薄っすらと赤が混じっていながら、全体には青味を呈した淡い空色が一番好きな色だ。

スミレの花はサクラなどのように、花びらが放射型(=放射相称という)ではなく、左右が線対称の形態(=左右相称という)である。
「スミレ」という名前は、「摘みれ」が変化したとも、下向きに垂れ下がる花びら(下弁という)の形状が、大工道具の墨壺に似ることに由来するともいうが、そういった由来とは切り離し、単純に「ス・ミ・レ」の音がまたとても心地よい響きと感じる。

我が家の周りでもたくさんのスミレが咲き出したが、これからの季節、しばらくは林道で様々なスミレ色を楽しめることと思う。

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シダ、芽だしの頃

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ひと雨ごとに・・・

つくしの話を前掲し、シダ植物の仕組みというものはなかなか馴染みのないものだと書いた。
春も三寒四温を経て日増しに本番に向かっている様相である。けれど自宅の近隣を数時間散歩してみたが、まだ、コゴミやゼンマイやワラビなどは出ていないようであった。
もう半月ほどすれば、ほどよい季節になるのだろうか。

シダというのは元来はウラジロのことを意味する言葉であったらしい。「ウラジロ」というのは葉の裏が白くて正月飾などにも使われる常緑のシダである。その葉が垂れ下がる様を「しだる」といい、それが転化して「シダ」となったと言われている。一方の「ウラジロ」であるが、「しだる」が「齢足る」などの長寿に意味付けされて、注連飾り(シメカザリ)の縁起ものになったともいう。

山を歩いていても、林道を走っていても、このシダの仲間はいたる所でお目にかかるわけであるが、冒頭のとおり、その生態というものは、なにやらさっぱりつかめない。

シダというのは、2態様の世代を繰り返して繁殖している。
私たちが一般に「シダ」と言っているのは、その一方だけで、もう1つの世代の間は人目に触れることもほとんどない。
1つは無性世代の造胞体といって、これが普通に見るあの「シダ」である、しかし、そのシダから放出された胞子が、種子植物の種のように直ちにまた新しく同様の「シダ」の芽を出し、それを繰り返してシダが繁殖しているのではない。
胞子はそれ自体発芽するけれども、いわゆる「シダ」にはならず、前葉体という有性世代に入る。これは1cm程度の小さなゼニコケのような、ハート型の目に付きにくいものである。このもう一つの世代では受精を行い、その受精卵から私たちが一般にいうところの「シダ」が発芽する。

シダは、何か人知れずといった感じで、こういう世代交代を規則正しく繰り返して繁殖しているというわけであるが、あまり注目して観察したこともなく、どうもピンとこないところが多分にある。
この春は少しシダに着目してみようかという気になった。

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つくしの袴

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ここ最近の急激な春の訪れに、春関連記事が続く・・・

我が家の周辺で、最も身近に春の訪れを感じさせてくれるのは、昔も今も「つくし」。「つくしんぼう」とよばれている。

つくしは、「スギナ」であることは広く知られている。「スギナの子」などともよく言われるが、それはそうではない。
「スギナ」は種の名前。シダの仲間(トクサ科の夏緑性のシダ)で、地中を長々と走る根茎から地上に茎を出す。この茎に他のシダ植物にも見られるように、胞子茎と栄養茎の2態があって、胞子茎の方を「つくし」、栄養茎の方を「スギナ」と呼ぶのが通例だ。

ところで、この「つくし」には「はかま」と呼ばれる部分がある。「つくし」の節目、節目についている濃い褐色の部分である。
子供の頃などに、手折った「つくし」をさらにその「はかま」の部分で切り離したり、「はかま」で繋いだりした記憶があると思う。

あの「はかま」実は「葉」だというから、少々驚く。栄養茎の方の「スギナ」にも、少し小さいが同じ形の「はかま」がある。

種子植物に見慣れてしまい。それ以外の植物、例えばシダ植物のつくりなどは結構知られていない部分がたくさんあるものだ。

林道にも、ぼちぼちつくしが出はじめるころになった。

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雲の名前

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見上げれば、いろいろな雲

一番好きな雲はなにかと言われれば、積乱雲と答えるだろうか。
危険な落雷をもたらす雲ではあるけれども、そのスケールといい、ダイナミックな諸現象を伴うことが興味をそそるし、なにより見た目が美しい。

夏の日に、山の向こうに更に高くそびえる姿、また、夕日を浴びて巨大な山脈のようにいくつかの積乱雲が立ち並ぶ姿など、これまで見てきた積乱雲が、それぞれ一枚の絵となって、深く脳裏に焼きついている。

積乱雲は、いわゆる「にゅうどうぐも」と呼ばれる雲であるが、厳密には、そのてっぺんがどこまで到達しているかで種別が分かれる。

積乱雲は大気の対流圏の上限に達したもののみをいうので、その頭がつぶれている。あたかも線香の煙が天井に達して四方に広がるように、入道雲の頭から富士山を逆さにしたような形の「かなとこぐも」を生じているのが普通。

これに対して、まだその高さまで達しておらず、まあるい頭で、より入道っぽいうちは、いくら大きくても積乱雲ではなくて、積雲。いわゆる「わたぐも」のなかまであるけれど、あまりにスケールに違いがあるので、雄大積雲という名称が正式だ。

雲の種類は、現在採用されている基本形で10種ある。しかし、上記で「 」で書いたような俗称があるのが雲の名前の特徴で、むしろ、そちらのほうが愛着が湧きやすいかもしれない。
基本雲形10種とその俗称をちょっと並べてみると、こんな具合になるがどうだろうか。

積乱雲・・・・・「にゅうどうぐも」
積 雲・・・・・「わたぐも」
巻 雲・・・・・「すじぐも」
巻積雲・・・・・「うろこぐも」
巻層雲・・・・・「うすぐも」
高積雲・・・・・「ひつじぐも」
高層雲・・・・・「おぼろぐも」
層積雲・・・・・「うねぐも」
乱層雲・・・・・「あまぐも」
層 雲・・・・・「きりぐも」

雲については、好きな分野でもあり、書き出したら画像も含めて、これだけで1つのサイトを作りたくなってしまいそうなくらいだけれども、今回はとりあえずこのへんまで。
機会があれば、季節に合わせて1つ1つ紹介してゆくことにしましょう。

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炎の名前

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炎とは、本来、複数の気体の発光反応をいう

炎は通常は人の活動と共にある、しかし、自然現象でも炎と捉えて呼ばれてきたものがいくつかある。

狐火などはその代表だろうか。
蒸し暑い日などに、山ぎわ、川沿いなどに現れるというその火は、火の気のないところに、オレンジっぽい火の玉が一列に並んで明滅し、近づくと消えてしまうらしい。
これは錯覚や妄想ではなく、実際に何らかの現象が起こっているのは確からしいが、あまり明快な説明は聞いたことがない。ただ、ほぼ光の異常屈折が起きているものと説明されてはいる。

似たようなものに、「ヒトダマ」もあるが、そう呼ばれるものの実態が定かでなく、これまたなんともいえないが、同種のものである可能性もあるし、自然のリンなどの可能性もあるが、いずれにしても、これらは名前からしてなにやら怪しい現象ではある。

林道を夜間に一人で走っているようなとき、ちょっとした気持ちの切り替え違いで、なにか物凄く心寂しくなるときがあるが、そんな時にこれらを目にしたとすると、おそらくかなりの怖さを感じるような気はする。

セント・エルモの火というのも有名だ。こちらは、原因も原理もはっきりしている。
雷雲が近づき、大気中の電場が異常に強くなると、地表から突出したもの・・・例えば山の山頂や尾根伝いなどでは、電場の強さがより高められることで、放電をはじめる。いわゆる先端放電というもの。この発光を伴う放電は、その昔、地中海の船乗りたちが、船の帆の先などで起こるのを指して、船の守護者セント・エルモの出現に例えられたといい、それが名前の由来だという。

実際にはその付近は、今にも落雷が起こりそうな地帯であるわけだから、危険極まりないので注意が必要だ。明るい昼には放電光は見えないが、シュィー・・・といういかにも放電の音が小さく聞こえるらしい。
林道を横切る高圧電線の下で、その音と同じような音を耳にすることもあるが・・・・まあ、聞かなかったことにしている。

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植林の形成

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切り出される植林の杉

山地の奥まで入り込んだ林道ならば、落葉樹林の中を走ることが多くなる。落葉樹は季節感があって、生物相も豊かである。本来、たいていの山にはさまざまな木々が生きていたはずだけれども、残念ながら、私の家の周りの山には、ほとんど杉しか見かけない。いや、人里近い山は、全国、似たような傾向にあるといってもいいかもしれない。

杉の山に生物が住めないなどということはないけれども、その種類は著しく減少する。やはり、多様な植物あっての多様な動物相といったところ。ただ、そうは言っても、原始自然の保全が絶対的であると訴えるような趣旨はない。限度を超えない範囲において、ある程度の人工林を許すバランスはあるはずだ。人々もそれなりには生きるために活動している。

地球規模での全ての植林のはなしであるが、植林というものは、長い時間のなかで、少しずつ今のような範囲に拡大していったのだろうか。あるいは、ある一時期に急進的にそうなったのか。現況は見知ったつもりだが、巨木が生え競う原生林ばかりだったはずの森が、現在の姿に至った歴史・経緯はよくわからない。驚くべきは人類の力ばかりということなのか。

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風の名前

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風の足跡

千葉/我が家の住まいあたりは、風がめっぽう強い。そして、風の強い日数が多い。
少々鬱陶しく感じなくもないが、その風にも、全国各地には様々な固有名詞などを持つものがあって、なかなか味のある名も少なくない。

「あなじ」とか「ならい」などの冬の季節風名はご存知だろうか。どちらも冬の偏西風起源の風。「あなじ」は日本海沿岸、主に山陰地方で使われる呼称で、対して「ならい」は太平洋側。東北から紀伊にかけて使われるらしい。

「あなじ」は小説などでしか会話の中で使われることを聞いたことはないが、とても寂しいイメージを持つ。ひとつの言葉が生むイメージというのは、人それぞれの経験などに由来するものだろうが、私は「あなじ」と聞くと、暗くよどんだ雲の下、ひと一人いない砂丘に半分風紋で埋まった風除けの簀が、ヒュィーヒュィーと鳴っている映像が浮かんでくる。

「ならい」は近くでは「筑波ナライ」など山の名前に付いて聞くことがある。そもそも「ならい」とは、山の側面に沿って吹く風をいうらしい。
釣りにいそしんでいた頃、主に漁師の言葉として、北(ならい)、東(コチ)、南(ハエ)西(ニシ)が使われていると聞いた。

そういえば、九州などで、南(ハエ)の付いた地名、例えば南風原(ハエバル)などを聞くが、房総にも横尾林道の南方向、長狭地方に北風原(ナライハラ)という地名があって、気になっている。

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屋久杉と林道

屋久島といえば屋久杉。世界遺産に登録されてから逆に足が遠のいてしまった感があるが、その自然は確かに優れていた。いや、特徴が顕著であったというほうが正しいのか。

屋久杉とは、まあ、杉なのだが、恐ろしく寿命が長い。その樹齢は2000年とも5000年とも8000年ともはっきり言ってどのあたりが正確な数字か分からぬままにしてしまったが・・・
樹齢1000年以上を「屋久杉」、1000年未満を小杉というらしいが、普通なら1000年だって常識ハズレに長寿の杉である。ちなみに我が家の近所で市内随一といわれる杉は300~400年くらいである。
いずれにしても樹木の寿命は想像を絶する。

残念ながらデジタルな記憶媒体を手にしてから、屋久島は訪れていないので、貼り付け画像はなし。もう10年以上以前の話だから記憶は薄らぎ始めているが、その当時も相変わらず何本か林道を走った。西海岸沿いの原生林を走る西部林道もよかったが、南東部から山中に分け入る安房林道は、素晴らしかった。

林道に沿ったところに、「紀元杉」という宿木をたくさんつけた樹齢3000年と言われる巨木があった。いまでも、そこまで林道で入って行けるのだろうか。
何回でも行ってみたい島である。

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素掘りトンネルが多い房総の林道

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地底探検を楽しむような素掘りトンネル

房総の山々は、少々特殊な性質があり、そのために林道もほかで見られない特徴を少なからずもっている。
その最たるものは、素堀のトンネルの多さではないだろうか。
拙稿で前にも少しだけ触れたが、少しまとめておきたい。

房総の山は、水成の堆積砂岩質のものが主であり、一様に侵食風化が進みやすい地質である。
盆状(真中が低く周囲が高い)の関東平野の構造とその生成過程からいって、房総の山の地質が通常の硬質なものであったなら、関東平野を取り囲む関東山地など、他の山々と同様に、2000m級の山地がそこに存在したはずであるとも言われている。
(では、1500m以上も侵食されて流された土壌はどこへ行ったのか?東京湾に流れ込み、遠浅の海岸を作ったのだろうか・・・など、これは、にわかに信じがたい部分もある一説ではあるのだが)

しかし、実際には房総の山は300m程度の丘陵である。とはいっても、山域の奥まで河川が深くえぐったような谷が入り込み、しかも川は大きく蛇行を繰り返しているなど、案外複雑な地形が形成されている。

通常、道は沢沿いであることが多いので、すべて川に沿って道を通すとなると、かなり蛇行した遠回りな道になってしまう。これを回避するために、トンネルや切通しが必要になるが、トンネルなどはその施工にそこそこ手間と資金がかかるから、無理がある場合は作らないで、峰越えの道を作るわけである。

ここで、房総の地質がの風化しやすく穴も掘りやすいものであることが生きてくるのだろう。なにか、他の地方と違い、道の先に障害になるひと山があれば、迷いなくトンネルを施工しているようにも思える。

少し蛇足になるが、大きな蛇行に関連して、「川回し」という川の上流から下流へのトンネルによるバイパスもある(これも前に触れた。)。
この川回しというは、近時ではなく古くに行われたものであるから、むろんトンネルはコンクリートなどでなく素堀である。
場所によっては、この川回しのトンネルと林道のトンネルが上下ななめに並ぶように次々と現れるような場所もあり、見た目にも珍しく大変たのしい道である。

ここで具体的に林道を紹介しようと思ったのだが、前置きばかりで、いつもながらの駄文長文となってしまったので、またの機会に譲ることとしたい。

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プテラノドン

自然風景にある錯覚(番外)
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中生代に栄えた翼竜の主要種である

錯覚シリーズその4のカブトムシ拾いの妄想ばなしは、中身のないはなしだったのだが、これと似たような話しをもう1つ思い出してしまい、書かずにいられなくなった。
はなしは、カブトムシの一件より、もう少し若年時に遡り、私が小学校の2年生のときのことだった。

崩落の恐れから侵入を禁じられていた洞窟で、主に貝類の化石掘りをしていたときのこと。
私がふと見上げたその壁面に、なんとプテラノドンが張り付いていたではないか。あまりのことに、恐怖に洞窟を飛び出て逃げたことがあった。どうも、化石というより肉付きがあって今にも動きそうなイメージがあったのだ。

そこが、そんなに古い地層ではない(せいぜい百万年前)こともそうなのだが、そもそも、はなから、ありそうもない話である。小学校2年生とはいっても、そのくらいは了解していたつもりである。

ただ、その現場は数年後に埋められてしまい、今思えば、ばからしくもカワイイ妄想の検証とはいえども、現場の再確認ができなかったことと、その妄想は一人でなく、他に2人の同級生仲間が同行していて、その仲間2人もその翼竜を見たなどといっていたから始末が悪い。

3人も雁首そろえて、いったいどんなものを見誤ったのか、正体を知りたかった。
とまあ、そんな、ばからしくも心残りな一件である。

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カブトムシ拾い(下)

自然風景にある錯覚(その4-2)
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夏らしい花「カンナ」

小学生当時の私が、カブトムシ拾いの穴場であった工場に、夜間侵入したまではよかったが、待ち構えていた作業員のおっちゃんに見つかって、脱兎のごとく逃げ帰った。そして、夜が明け、現場確認にもどった私がそこで見た驚きの光景とは・・・

おっちゃん達は、花だったのである。

カンナという花をご存知だろう。背が高く、人の背丈ほどは十分ある。深緑でばしょう状の幅広かつ長い葉をまっすぐと伸ばし、てっぺん付近にいくつか黄色や赤の大きめの花をつける。熱帯原産の園芸種の花で、よく何本もの株がひとかたまりに植えられていたが、最近は以前ほど見かけない気がする。

そう、深緑の作業服は茎・葉の部分、そして黄色いヘルメットは花の部分。この花が寄り添って咲いている姿は、無理すれば、何人もの現場姿のおっちゃんに見えなくもない。
そのカンナの花が、大外灯の下に植えられていたのだった。

しかし、私は、確かにそのおっちゃんたちに顔があり、こちらに気づいてニヤニヤ笑っていたのを見た。そればかりか、何人かの声まで聞こえたのだ。
けれど、確かに見たはずのその光景が現実だったとは思っていない。

思うにただでさえリスクのある無断侵入行為に重ねて、ちょっとした電撃を受け、その驚きが、緊張感を増大させたのだろう。
人というものは、精神状態次第で、なにやらとんでもないものを見てしまうこともあるのだと、肝に銘じさせた一件だった。

そのときは、あまりのことに、一人でその場で大声で笑うほかなかった。
花を見て、一人で勝手に怯えて逃げ帰った自分の姿を思い起こして・・・


今回の話しは、とうてい主題の「錯覚」などはなく、ただの「妄想」というものである。
つまらぬ話しを2話にも渡って引っ張り、恐縮する次第である。

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カブトムシ拾い(上)

自然風景にある錯覚(その4)

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カブトムシも実は錯覚で電灯に?

小学生の時分、夏休みの大きな楽しみのひとつに朝のカブトムシ捕りがあった。カブトムシ「捕り」というよりも「拾い」といったほうがよい。
当時、市内には、ガソリンスタンドなど、限られたところにちらほらとしかなかった明るい外灯の下を朝巡回し、夜中に飛来して落ちているカブトムシを拾い集めるのだ。
まあ、樹液に集まるのを捕獲するのと違って、少々さみしいはなしではあるけれども・・・

さて、さすがにカブトムシは当時でも子供に人気。見つけたもの勝ちだから、通常は最初に「その場所」へ行ったものが権利を手中に収めて捕獲する。少しでも早く、少しでも多くの場所を回ろうと、子供たちは走り回ったものだった。

穴場があった。高い外壁とバラ線付の門扉で閉ざされた工場の敷地内にある外灯。これは、相当悪ガキでないと進入することもないので、進入さえすれば、まんまと獲物を手中に収める確率が非常に高い。
しかし、それだけにリスクも高く、工場のおっちゃんに見つかったらどんなにしぼられるかは計り知れない。

その工場で、いまでも忘れられない事件が起こった。

いつものように、まんまと高い塀を乗り越え、周囲の様子を窺いつつ、そろり、そろりと、その目的地へ歩みを進めた。敷地内の最初に降り立った場所の正面に1棟の作業棟がある。その建物の角を右に折れれば、あともう数十メートルのところに大きな電灯が立っていた。

午前4時前、あたりはまだ暗い。作業棟の角からちょこんと首だけ出して様子を窺う。小さな古い外灯の支柱のようなものにつかまって顔だけ乗り出そうとしたとき、触れた支柱から鈍い電撃のような衝撃を覚えた。中の配線からの漏電によるものだったのかどうか、今となっては定かでないが、まあ、それ自体は少々驚いただけだった。

気を取り直し、支柱には触れずに目的の大外灯の方向へ顔を覗かせた。しかし、そこに私が見たのは、日も昇らないこの早朝、揃いの深緑の作業服に黄色いヘルメットをかぶった現場のおっちゃんたち5、6人が、ニヤニヤしながらこちらを見ているという度肝を抜く光景だった。

腰を抜かさんばかりに驚いた私は、あとはもう、何を見るでもなく、ただ一目散に外壁を乗り越えて脱出し、家にひた走るように逃げ帰ったのだった。

・・・当日、夜が明け昼前ごろだったか、その工場を再びそっと訪れた。誰一人入れるはずのなかったあの状況下、カブトムシが誰にも拾われることなく、まだいるかもしれないという一念で、懲りずにそこへ向かったのだった。昼間は夜間と違い、子供一人ごときが敷地内に紛れ込んだとて、目くじら立てることはなかったので、なんなく現場に到着した。

ところが、このときばかりは、ドラマやアニメではないが、本当に我が目を何度もこすった。そこに、信じがたい光景があったのだ
・・・(つづく)

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裾野の平衡

自然風景にある錯覚(その3)

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登り坂に見えませんか?

動力なしで車が動く

火山特有の広大な裾野を広げる群馬の名山、赤城山。
ここで不思議な感覚を覚えたことがあった。

裾野の一角、山方向からの下山途中。見晴らしのいい高原で一息入れようと、道がまっすぐに続いて平坦な路面に車を停車。ミッションをニュートラルに入れた。ここで通常ならハンドブレーキを引くわけだけれども、何か違和感。そのまま、そっとフットブレーキから足をはなしてみる。

おおっと、思いがけず車は動力もなく勢いよく前進してゆく。しかもどんどん加速していた。
そう、この錯覚シリーズその1の地層の話しと同様に、一見平坦に見えたその路面は、実は前方に向かって結構な傾斜のある坂道だったのだ。

こんどは、視界いっぱいに広々と展開する裾野が錯覚を生み出していた。
裾野のラインは、むろん山頂から麓に向かって、なだらかに傾斜しているが、スケールが大きく、視界全体がその裾野内という環境に入ってしまうと、人の目は平衡というものを簡単に誤ってしまうようだ。

そういえば、そうした錯覚を利用したブースが博物館や遊園地などにもあり、例えば、家全体が実は傾いて作ってあり、家具などもすべて傾けた家の水平・垂直方向にあわせて調度してあるために、中に入った人は平衡感覚を誤ってよろけるというようなタイプのものなど、楽しませてもらっている。

こうした錯覚は、赤城でなくても、関東近隣なら富士でも那須でも見られるだろうと思う。また、正面に大きな山を見上げながら道を進むとき、同じ山が上り坂では低く、下り坂では高く感じられることなども、同じ部類の感覚※といえようか。

※似たような状況下での感覚であるかどうか、本シリーズ(その2)に「しまさん」から興味深いコメントをいただいた。風景が作り出す視界形状による錯覚と併せて、人間の神経集中による認識視野の縮小と対象物の相対的拡大の話し。なかなか面白い。

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ヒラタクワガタの交雑

季節がら、昆虫たちとはややご無沙汰で寂しいが、ミノムシの話を出したあと、ふとクワガタムシのことを思い出した。昨年に比較的話題になったかと思うが、ヒラタクワガタの外来種が帰化して、在来の日本固有種が危機に瀕しかねないという。

環境問題をあまり取り沙汰する気ではないのだが、いかんせん、この時代、こうした話ばかり目に付いてならないのは悲しいことだ。

日本のヒラタクワガタは、体長40~60mm程度(雄)と国内種としては大型のほうで、オオクワガタ・ミヤマクワガタ・ノコギリクワガタなどと比べると、一般的にはやや華々しくない。しかし、なかなか立派な体格をしていて、対馬産のものなどは70mmを越える体長があり、あのオオクワガタに勝るとも劣らないサイズのものもいて、なかなか魅力的。
なお、対馬ほか離島のものは、多様化し現在いくつかの亜種に分類されている。

外国種のヒラタクワガタの仲間では、南方に行くとかなり大型化し、スマトラオオヒラタなどは、110mmくらい(雄)にはなるだろうか、とにかく、国内種より断然大きくて気が荒い。
私たちが子供の頃は、こうした外国産のクワガタなど、図鑑の上か、博物館の標本でしかお目にかかったことはなかったが、近頃では、すぐそのへんのホームセンターなどで平気で売っている。しかも、たいした値段ではない。

しかし、爬虫類や鳥類がそうであるように、こうしたペットの一般普及があれば、必ずそれが故意や過失で外界に進出し、あたりまえのように帰化してしまったりする。
スマトラやタイ産の大型のヒラタクワガタの仲間も、既に国内種と交雑が起きており、昨年の夏ごろだったか、国内でサンプル採取したヒラタクワガタのうち、3%近い個体から外国産のもののDNAパターンが見つかったというような発表が、国立環境研究所からあって驚かされた。

生物は拡散・放散的に分化してゆく例が通常で、自然環境下では多様化の方向への一方通行ともいえるかもしれない。ヒラタクワガタもおそらく数十万・数百万年の単位で分化し、また、分化しつつあったのだろうが、人が介在してほんの数年程度で、まったく方向性を変え、すべての国内種が雑種となって行く将来もあり得るという可能性を考えると、少々恐ろしい気がしてくる。

※昆虫についてお気に入りのサイトを「関連サイト」に追加しておきたい

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恐ろしい月

自然風景にある錯覚(その2)

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赤く大きな月が・・・

特に満月は格別である。

日が落ちて、夕闇が訪れた東の空をふと見やったとき、そこに、まっ赤に充血した目玉のような、いや、もっと何かまがまがしく、強大なものをイメージする巨大な球体が浮遊していて、ぎょっとすることがある。私が幼少の頃など、泣くほど怖かった覚えもある。
もちろん、今は月と気付いてなお恐いなどということはまったくなく、むしろ、なんとなくワクワクとしてくるくらいではあるけれども。

さて、ここでの恐いという感覚は、「個人差ある意識」の産物。本題とはまったく別の分野の話。
また、「赤く見える」ことも、光の波長とその性質の話であって、錯覚の話ではない。
本題のほうは、「巨大な球体」の部分の方、つまり、大きく見える月のほう。これは自然風景の錯覚としては、とても有名な事象である。

からくりも、みなさんよく聴くと思うが、比較対象物(地上の風景)が周囲にある物(月)は、大きく見える錯覚・・・という説明。
しかしながら、この説明のしかたは少々引っかかる。ちょっと間違いがあるのでは?

思うにこれは、説明が逆なのではなかろうか。
より正しく思われる説明をさせてもらうと、比較対象物のない広いスペース(空)に置いたもの(月や太陽)は、実物より小さく認識される。
広いところにポツンと置いたものは、小さく見えがちということ。つまり、そこで錯覚を生じる。
そして、我々は、日常、中空にかかる月や太陽をこの錯覚で小さめに認識し、それを標準の大きさとして捉えてしまう。
ところが、そこに、比較対照物となる屋根や煙突が現れることで、認識と違い実はもう少し視角が大きい月や太陽の真の大きさを感じて驚くことになる。
と、そんな説明のほうがよろしくはないだろうか。

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みのむしが絶滅?

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冬の風物詩

冬の景色によく似合うものの1つとして、ミノムシがあげられる、これは、ミノガという比較的小型の蛾なかまの幼虫が作るポータブルケース、いわゆる蓑であることはよく知られている。成虫になると、みな羽化して飛んでいってしまうかというとそうでもなく、このミノガの仲間のメスは羽化せずに、一生この蓑の中で幼虫と同様の姿で生活を続けている種が結構ある事は余り知られていないかもしれない。

ミノムシは何も林道など自然豊富なところにわざわざ行かずとも、家の周りでいくらでも見られる・・・と、思っていたが、そうとばかりも言えない事情らしい。

少しばかり前の話題になってしまうのだが、日本に生息する代表的なミノガの一種「オオミノガ」が、外来種のヤドリバエに寄生されて絶滅しかかっていた。この情報自体を私が耳にするのはかなり遅かったのだが、なんとなく最近ミノムシがいなくなったなあ・・・と感じてはいた。
しかし、絶滅が危惧されるほどであったとは驚いたものだ。

もう一種の代表種チャミノガなどは、茶の葉を荒らすので害虫とされているが、どういう種であっても、やはり、種が途絶えるということは、自然界ならあってはならないことではないものの、人間の活動を介して起きる絶滅(この場合は外来種の持込など)は、好ましいこととはいえないだろう。

最近では、その外来種のヤドリバエに寄生するハチが現れて、ミノガが徐々に数を回復し始めたようにも聞いている。なんとも因果な世界。

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水が這い上がる川

自然風景にある錯覚(その1)

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この道は上りか下りか?

私の住む千葉・房総では、地層というものをよく目にする。
一足山に入ると、道路を通すために開かれた切り通しや、河川が長い年月をかけて削った断崖のなど、いたるところに地層が現れる。

おもしろいことに、よくみると房総の地層は、全般に東京湾に向かって傾斜している。これは、関東平野全体の地質の傾向に準じたもので、平野の外縁部(関東山地など)が同心円状に高く、平野の中心部(古河市あたりを指すのだろうか、詳しくは知らない)が低くて、そこに向かってどんどん落ち込んでいくような傾向にあるらしい。そして、房総では東京湾の方向に向かって一様に地層の傾きがあり、多く見られる地層の路頭は、その傾向にしたがっている。

さて、子供の頃、房総における一級の河川である養老川で水遊びをしたことが何回かあった。
房総には川回し※といって、うねうねと蛇行する川をトンネルでバイパスさせる習俗的な河川技術があるのだが、このトンネルの中を流れる川を見てはっと驚いたことがある。

自分の立っている足元の川床は、そのトンネル(とはいっても、ごく短いもの)の向こう側のそれよりも、明らかに高位置にある。そう、感覚として言えば1mは高く感じた。
ところが、私の足元は下流であって、水はトンネルの向こうの低いところから、私の足元の高いところへ這い上がるように登ってくるのである。

もちろん、現実には、低位置にある水が這い上がって、高位置に向かって登ってくるなどという話があろうはずはなく、それは明らかに目の錯覚であったし、これは、子供だった私にもすぐに分かることではあった。

冒頭にお話しした、房総独特の傾斜した地層のせいである。
実は地層はトンネルの向こう側からこちらに向かって落ち込んでいた。そして、私の立つ川床の周囲一面には無数の地層が傾いて走っていたのである。ところが、そのために、川床に立つ私の目は、そのラインこそが真の水平方向、重力の水平方向なのだという認識誤りを起していたのである。
実際には、真の水平に近いのは川の水面である。けれども、その水面がこちらに近づくにしたがい、一つ一つ地層の上位位置にくる様子は、さながら低位置から高位置に這い上がる水という錯覚を起させるに十分な環境条件にあったわけである。

しかし、みごとな錯覚というものは簡単には補正できない。地層と水流の織り成す錯覚。いくら理屈がわかっていても、何度も目をこらしてみても、水は相変わらず低位置から這い上がって流れていた。


※川回しは、水田を得るためなどの目的のため、蛇行河川の近いところ同士をトンネルでつないでバイパスさせ、干上がった旧河川床を利用するという、河川土木技術で房総には他に例がなく多くの「川回し」が見られる。

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ニホンイモリの腹はなぜ赤い?

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イモリって、案外長生きです

大好きなイモリの話。
林道には、イモリがつきもので、道の脇の水場をちょっと覗くと、カワイイ姿を見ることが少なくない。かつては、あちこちの池や田んぼに、うじゃうじゃと住んでいたらしいけれど、今では、ひらけた場所では、そうそう目に付く生き物ではなくなっている。

上から見ると、やけに地味な褐色で、小さめの手足を生やした胴は、ぽちゃっとしていて、オタマジャクシのような尾に続いている。目がつぶらで、本当に可愛らしいが、嫌う人もいるのには私は驚きだ。
イモリの形態というのは、四足脊椎動物として極めて基本型で、どこにも無理が感じられず、あくまでナチュラルな生体デザインだと思う。

さて、このイモリ、正式にはニホンイモリといって、日本固有種である(北海道には自然には生息しない)。一番顕著な特徴は、腹部の赤い斑模様で、そのためにア力ハライモリとか、単にア力ハラなどとも呼ばれる。漢字で書くと「井守」。
背中から見ると、やけに地味だとさっき言ったが、この赤い斑は、全体に地味な色づかいの多い日本の野生動物の中にあって、異例と言っていいほど目立つ赤である。
多くの個体は赤というより、「朱」という感じに近いが、いずれにしても色味、模様とも、人の指紋のように、個体ごとにみな違う。

我が家の水槽にも二十数匹のイモリが棲息中であるけれど、やはり、この模様で個体の区別をしている。主に喉から胸にかけての模様から連想して名前を付けている。いや、あんな小さな生き物に名前を付けて飼っていると聞くと、私が、やけにはまり込んだ人間と思われるかもしれないが、イモリというのは、おそらく大抵の方の想像以上に長生きで、あんなにナリは小さくても(全長70~130mm)、二十年以上は生きられるようで、今、我が家にいるイモリも古いものは12才程度を数えているが、まったく衰えを感じさせない。情も移ろうというものだ。
また、その上に、単に飼育するということでいえば、イモリの飼育は著しく簡単で、病死などは皆無に等しく、注意すベきは水槽からの逃亡のみと言っても過言でない。

まあ、いかんせん、両生類は水がないとそうそう生きられない。しかし、これまでに何回か水槽から逃亡したイモリを救出したが、これがまたスゴイのだ。
逃亡後、時間がたってしまうと、イモリの体は水分を失って、かなり早くミイラ状態になってしまう。そうなってしまうと、普通の動物の常識なら、どう見ても助かりっこない状態なのだが、救出後にミズゴケの上などの十分な水分があるところに置いておくと、それだけで、1、2時間もすると、水分を吸収して元の体に戻っている。

どうも話が逸れがちだが、このイモリの腹の赤いのはなぜだろうか?はっきり言うと、この表題には答えを用意していない。
赤や黄色のやけに目立った体色と言うのは、往々にして警戒色であることが多いが、イモリもこれに当てはまるのかもしれない。一応、毒をもっていることはもっている。
魚のフグと同じテトロドトキシンを皮膚から出すというのだが、今までに飼育下や自然のイモリで毒を感じたことはない(そうはいっても、さわったら手を洗うようにしたほうが無難でしょう)。実際、まったく頓着なく触っているのだが、あまり毒があるというイメージはぴんとこない。

いずれにしても、自然の作り出した生物の色や文様というものは、非常に多彩であって、その意味があって存在するのか、必ずしも意味はないのか、はっきり言って分かりかねる。生物が自らの意思で形質を獲得するということは今のところ否認されている。
しかし、こうした生物の多様性というものは、今の進化論の本流(総合説=ネオ・ダーウィニズム)で説明できるとはどうも考えづらく、私自身は、ほとんど信用していない。

・・・まあ、進化論のはなしは、また、別稿でといたしましょう。

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日の出時刻と厄介な疑問(2)

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単純ではない日の出時刻

日の出最遅のピークは冬至より後にずれ、日の入最早のピークは冬至より前に訪れる。
前回の繰り返しになりますが、一年中で最も日の出時刻が遅いのは冬至であってしかるべきと考えそうなところだけれども、実際にはそうはならずに、冬至を10日あまり過ぎた1月の初旬となり、同様に、最も日の入が早い日は、冬至よりずっと前の12月の初旬となるのはなぜなのかという問題でした。

この問題は、実は私が子供の時分に長いこと不思議に思い続けていた問題でした、分からないといっても、少し考えれば分かりそうな問題だったので、書物などを調べることなく何とか自分で答えにたどり着こうと、人知れず頭をひねっていた記憶があります。しかし、結局、正解にはたどり着きませんでした。

では、その正解とは・・・これが、表題で「厄介な疑問」としたように一言で竹で割ったように説明することがしづらいのです。
ちゃんと説明しようとすると興味の薄い方は、ますます興味がなくなるようなものなので、詳細については、ここではその分野のサイトで説明しているのを紹介するにとどめ(最下段参照)、正確ではないですが、ごくごく平たく説明しておきます。

【説明】
(1)まず、問題の基礎として、時間・時刻というものを理解しなければなりません。
私たちが通常に使用する時刻というものは「平均太陽時」というものを使っています。
もともと、1日(天空を太陽が一周してくる時間)の長さというのは、太陽の実際の動きで決められていました。これを「真太陽時」といいます。

(2)しかし、地球の地軸の傾きと、太陽を公転する軌道は正円でないことから、そのままだと1日の長さが年間を通すと長くなったり短くなったりしてしまいます。そこで、平均値を取ることで1日の長さを無理やり均一にしました。これが「平均太陽時」です。

(3)そして、上記の理由で実際の太陽の南中時間はいつも一定ではないということが生じます。
 東京の南中時刻でみると次のとおりです。
  年間平均    11時41分
 (それぞれ、変化のピークごろの南中)
  2月11日ごろ 11時55分(遅)
  5月14日ごろ 11時37分(早)
  7月26日ごろ 11時47分(遅)
 11月 3日ごろ 11時24分(早)

(4)ここで、実際の南中時間が遅れると言うことは、実際の日の出時刻も遅れるということに注意してください。 

(5)一方、真太陽時で考えたなら冬至では最も日の出時刻が遅く、冬至を過ぎた後の日の出の時刻は、当然だんだん早くなります。

(6)しかし、これに(3)・(4)のような南中時刻の遅れ=日の出時刻の遅れというものを併せて考えると、冬至過ぎの時期は、南中・日の出時刻が大きく遅れている時期にあたり、この遅れる程度が、(5)の冬至を過ぎて日の出が早くなる程度を上回っているのです。

(7)このため、日の出時刻は、冬至以降も引き続き遅くなり、遅れの程度を早まりの程度が追い越す1月7日ごろをピークとし、それ以降になって、やっと実際に日の出時刻早くなってゆくことになるのです。

どうでしょうか、分かりづらかったと思います。
もちろん私の理解不足もあるでしょうが、正確さより分かりやすさを心がけて書いてもこのようになってしまいます。
自然の原理というのは、複雑そうなものでも得てして単純なのですが、これは、自然の原理に加え、人の手による原理である「平均太陽時」というものがからんだ問題であるためなのか、すっきりした回答でなくちょっと悔しい思いです。

【もっと詳しい説明】
  ・こよみのページ
  ・横浜こども科学館/(財)横浜市青少年科学普及協会

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日の出時刻と厄介な疑問(1)

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海に沈む太陽

もはや、正月気分も抜け、仕事の山に奔走する日々をお過ごしの方々も少なくはないのでしょうが、ここでひとつ初日の出にちなんで、日の出、日の入の話。

日の出の時刻というのは、太陽がどういう状態を指すのか…というのは、本稿の主題ではないのですが、まずは、復習の意味でそこにも触れておきましょう。

太陽は、点ではなく大きな視角(見かけの面積)があります。したがって、地平線を通過するのにも時間がかかるわけです。そして、日の出・日の入、もしくは、日出・日没というのは、太陽面の最上点が地平線上に見える時刻を標準とするものです。つまり朝は、少しでも太陽が顔を出そうとした瞬間、夕方は沈み始めた太陽の最後の光が消える瞬間ということになりますね。
日出・日没は、天文学的なきまりごとですが、狩猟法などの法律でも使われ、最高裁判所以前の大審院の判決(大正11年6月24日)には具体的です。あまり興味ないかもしれませんが、気になるようでしたら調べてみてください。

ついでに申しますと、月も太陽のように視角があるのですが、こちらは太陽と違って満ち欠けがあります。このため、太陽と同様にすると、欠けた部分の昇降はまず確認できないわけもあって、天文では、中心点が地平線を通過する時刻を月の出没時刻としているという違いがあることは、一般にあまり知られていないかもしれません。


それでは、本題。
一年中で最も日の出が遅い日はいつなのかご存知でしょうか。
日の出から日の入まで、つまり昼間の時間が最も短いのが12月下旬の冬至であることは言うまでもありませんが、普通に考えたら、最も日の出が遅いのも冬至であると考えそうなところです。
けれども、実際にはそうはならずに、冬至を10日あまり過ぎた、1月の初旬となるのです。
もちろん、冬至に比べて昼間の時間のスタートに出遅れた分、日の入時刻は朝の遅れ以上に冬至よりも遅くなっていて、トータルの昼間の時間で冬至が最も短いわけですが・・・
また、これに対応するように、一年中で最も日の入が早い日は、冬至よりずっと前の12月の初旬となっています。

新聞の日々の暦欄を調べたり、天文年鑑などを見ていただければ、以上のようなことは確認できますし、人によっては、日常の生活の中で体感的に認識しているかもしれません。

日の出最遅のピークは冬至より後にずれ、日の入最早のピークは冬至より前に訪れる。
これが、ここで問題対象とする事象です。
そして、では、いったい、どういう理屈でそうなるのでしょうか。
これが、本題の疑問です。

ちなみに、これは日本の東西南北を問わず、同様に生じる事象なのです。
つづく

*参考*

国立天文台の日の出・入り時刻の計算

同 月の出・入り時刻

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猿害

サルが山野の食物不足のため、農作物を荒らす『猿害』。ほかにも、熊、鹿、猪など、人の経済活動に対する害を及ぼすものが知られる。
林道を走っていてこうした事例で一番よく目に付くのは、鹿の害に対処する諸施設だろう。
山一つを丸ごと囲んでしまったような柵や、その柵を道が横切るところに作られた、所謂「鹿ゲート」
私としては、見るからに、人と鹿との、まさしく争いといったイメージを受ける。
「人間と自然」と大きく構えると、人間が悪者のようだが、実際に、これらと対峙直面している方々にとっては、我々の想像を遥かに越えたものがあるのだとは思う。

人間中心的な見方をしないで、極めて客観的に考えると、どちらが善悪というよりも生物間の争いなのかもしれない。ただし、それにしては、やはり人の力は不公平に強大すぎる。また、一方が「生きるため」であるのに対し、一方は「豊かな生活のため」と、何ランクか上を追及する行為という違いもある。

今ひとつ判然とはしないが、人間の行動というものは、はたして自然なのか別の次元なのか、人間だけは生物のなかで、ある意味、特別なのかということ。
あくまで、人間もこれまで現れた生物となんら変わりなく、単なる自然の中の生物であるとする立場をとるならば、人と獣たちの関係は加害・被害の関係ではなく、競争・闘争の関係になるのかもしれない。
けれども、そうではなく、人はある意味で一線を超えた生物と認めるならば、それなりの自覚を持った行動が必要だろう。

思うに人間は、自己や種の保存・繁栄のため以上の行動を積極的に起し、身体の変化=進化によらず器具によって身体的不足を補って動的能力を高めることをする初めての生物といえる。※1
つまり、結論として人間はある意味特別といってもよい※2

ならばこそ、私たちは自然をおおらかに見据える目をもち続けなければならないだろうし、自らの行動の大多数は自然と相反するということを、どう乗り越えて行くか深く考えなければならない。

※1:このため、人間は今後、身体についてはほとんど進化しないかもしれないと思っている。

※2:宗教的、思想的な意味合いの人間特別視ではない。

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ニホンザル

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ニホンザル/福島県南会津郡檜枝岐村
新年です。申年ですね。
林道では、比較的よくお目にかかるニホンザルです。
霊長目オナガザル科、体長は50~70cmくらい。よく知られるように、生息北限の青森県下北半島は世界のサルの中でも最北限の生息地。順位・血縁によってなされる群れをなして行動しています。
昼食時などに車のドアを開けっ放しでいようものなら、大変なことになるので注意が必要。カワイイ見た目と裏腹に、とんでもなく凶暴・悪辣な仕業をいただいてしまいますよ。

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ダートと舗装(2)

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ダート路面は自然と言える?

舗装林道が、自然環境に対して、それなりに大きな影響を与えるであろうことは、いうまでもなく誰しも感じる。
ならば、未舗装ならよいのか?いや、そうではあるまい。やはり、従来の森を切り開いたなりの影響は当然被らなくてはならないだろう。

生命が活動する地球において、純然たる自然物とはなにか?それは、生物活動として作られ、育まれたものまでが限度であって、経済活動によるものは、既に自然の範疇を離れ始めているというほかない。では、舗装道路も未舗装道路も同じかといえば、もちろんそんなことはない。程度の問題ということにはなるのであろうが・・・この点を哲学しても不毛なので、純自然の話はそこまでとして・・・

水田が自然ではなく、人工物であるのは明らかだけれど、一般には自然とほぼ同視されている。薬物などの問題はひとまず置くとすれば、水の循環における保水の役割、そこにはぐくむ生物群、こうしたものが、湖沼などと重なるからだが、未舗装林道の路面についても、少しではあるが同様の見方をすることができる。

路肩の動植物、地表・土壌中の生物、表層・地中の水流など、元来の森に比べれば低下しているとはいえ、こうしたものが、ダートの林道用地が担っている自然環境の一端ではあり、林道を舗装した場合に失われかねない環境である。

自然というものは、おおらかであって、こうしたことの一つ一つをあげつらって、騒ぎ立てる気は毛頭ないが、大局的な意味としては、不必要な舗装というのは極力控えてもらいたいものだと思う。


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