北斗七星

F2008_0405_215302s
~春の宵空高く輝く七つ星~

春、いまごろの宵空には、北斗七星が北の空高くよく目立つ。ちょうどひしゃくをひっくり返し、北極星に水をかける形だ。

北斗七星は、昔の中国の星宿(星座のようなもの)を形成する7つの星の一団であるのだが、非常に知名度が高い。

日本で一般には、占星に関わる12星座(天文的には黄道12星座という。)の名はよく知られるが、それ以外の星々のまとまりの名称の中では、最も広く知られた名称のひとつだといえるだろう。

もっとも、黄道12星座の場合、名称は知られていたとしても、実際の星空での姿となると、よく知られている星座ばかりともいえないので、実際の姿を知っているという意味でいったら、全天でも片手に入る認知度の高い星々の一団といえるだろう。おそらく、憶測ではあるが、北斗七星はさそり座、オリオン座あたりと並んでベスト3くらいなのかもしれない。

天文学上の「星座」の世界標準は、国際天文学連合定義の88星座であり、北斗七星は初めに書いたようにその星座ではない(北斗七星はおおぐま座の一部になる。また、中国の星宿には、ほかに「斗」(南斗)や五車などが有名どころ。)。にもかかわらず、北斗七星が人々によく親しまれているのは、7つの星がそろって明るく、形もよく整っていて見やすい上、文字の持つ響きやイメージも印象深いことが要因だろう。

古来の日本においても、北斗七星は、七つ星又は四三星などという名で呼ばれたとされており、やはり同じ7つの星で一団と捉えられていたようで、このあたりからも目立つ星の固まりであることが分かる。ちなみにさそり座、オリオン座なども、同様に釣り針星、鼓星というような名で現在の星座と同様に一団とされていたようである。

私も初めて星の並びを覚えたのは、初夏の宵に北西の空に下り始めたこの7つの星たちだった。また、それだけではなく、幼かったその当時に、その名を聞き、かつ、星空の中に直接に姿を見たことが、その後、星、天文という世界に非常に強い関心を持ってゆくことになるきっかけとなったのだろうなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

内惑星

N20080225053812
~水星と金星が並んだ明けの空~

いつものように朝の床から出てすぐ、部屋のベランダへ出てみると、東の空低く家並のすぐ上に仲良く2つの輝星が並んで見えた。まだ寝ぼけまなこではあるが、水星と金星の姿であることは間違いない。

少し前の月初めには、金星は明け方の空のもう少し高い位置にあった。そして、いまも東の空にある木星が当時はもっと低い位置にあって、その2つの惑星が並んで輝いていた。そのときは、少しして月もやってきたため、なかなか賑やかであった。

水星と金星は、地球より内側で太陽を回っていて、このことからこの2惑星を「内惑星」ともいうが、そのために火星や木星など地球の外側を回る他の惑星とは違って、見かけの位置が太陽からそれほど離れることはなく、いつも明けの東の空か宵の西の空にしかその姿を見ることはない。

それでも金星の方は、水星と比べ、地球のすぐ内側を回っているので、太陽から最も離れる時の角度(最大離角という)は水星の28°に対し、47°とずっと大きくて、日の出、日没のそれぞれ直前直後には、空の中空近いあたりまで太陽から離れるため、空に見えている時間も長いし、空が暗いうち又は暗くなってからも見えているので、我々が目にする機会はずっと多い。

まして金星は、通常において太陽、月に次いで、全天で3番目に明るくなる天体である。星状に見える天体としては全天一の輝きだからこそ、明けの明星、宵の明星といわれて親しまれていて、金星であるということを意識して見ているかいないかはともかくとすれば、金星を目にしたことがない人はおそらくいないに等しいと思う。

これに対して水星は、見た目の明るさが決して暗いわけではないのであるが、太陽から最も離れて見やすい時期であっても、朝夕いずれかのごく短い時間に低空でしか観察できないため、とにかく見る機会が少ない。

少し前、1月半ばごろだったか、NASAの水星探査機「メッセンジャー」から送られてきた、水星表面の近接画像をご覧になっただろうか。水星の新しい近接画像というのも、私が子供のころ以来であるから、ずいぶん久しい話である。

1974~75年に水星に近付いたマリナー10号が、その過去の水星接近探索で唯一の例であり、今回のメッセンジャーの探査はまだ2回目の水星探査機接近であって、今回の任務が遂行されても、まだ、撮影できていない表面部分は残るというのは意外ではないだろうか。水星の自転と公転の周期は3:2であり、太陽に照らされた明るい面をくるくると回って見せてはくれないのである。

月が替わる頃、この2つの内惑星はもっと接近するようなのでこれから数日は毎朝の起きる楽しみにしておきたい。また、今月初めと同様に、今回もまた、もう少し日が経つと月がやってくるから、明けの東の空は、月、水、木、金と賑やいだ空になるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ホームズ彗星の拡散

071113yimgc4bpscss
~その見かけの大きさ満月大~
(07.11.13 APS-C500mm画角で撮影)

最初見たときは、視面積を持った恒星のようだったホームズ彗星だったが、アウトバーストを起こして吹きだしたガスはどんどん拡散し、日を追うごとに見かけの大きさが大きくなってゆくのが分かる状態が続いていたが、それもとうとう満月と同じの大きさにまでなってしまった。

拡散するにつれ、面積あたりの光度は低下してきており、全体の明るさは最も明るかったころの2等台からだいぶ暗くはなった。それでも、まだまだ肉眼でもよく見えるし、双眼鏡なら視界に大きくその姿を見ることができる。

もちろん、カメラで充分露光をかけると、まぶしいほどに明るく撮影できるので、まだまだ楽しみは続く。

ところで、あの長く尾を引く、通常の彗星の姿というのはよく知られたところであるが、他の天体との実際の大きさを比較すると、いったい、どのくらいのものであるのか、あまり意識したことがなかった。

現在(07.11.13)、肉眼で見えるガス部分がだいたい満月と同じくらいの視直径であり、データを拾うと、ホームズ彗星までの距離は、おおむね1.6AU(1AU=1天文単位は、地球と太陽の平均距離)ということだから・・・なんと!月と比べようかと思ったのであるが、月と太陽は概ね視直径は同じであるわけだから、ホームズ彗星のガスの広がりの実際の大きさは太陽の直径の約1.6倍ということか。まったく想像外の大きさだ。
ちなみに、現在の月までは約0.003AUで太陽までは0.990AUということであるから、それぞれの地球からの距離の数値がそのまま直径の比になるはずだ。

もっとも、今回のホームズ彗星は、尾が地球からの見た目で主に真後ろの方向に伸びていてるらしいと前回書いたが、つまり、上記の直径というのは、彗星を正面から見たときのあの彗星の頭の部分の太さとは限らず、後ろに伸びた尾が広く拡散したものであるのだとは思う。

今回のホームズ彗星は、その明るくなった原因や見る方向のため形こそ変わっているが、見た目の大きさそのものが他の明るくなる彗星と比べて、特に大きいというわけではないと思う。彗星というものの大きさをあらためてよく考えてみると、みなこんなに大きいものであったわけだ。確かに、地球の軌道に極めて近くを通る彗星などは、空いっぱいに広がることもあるくらいだ。それにしても、意識したことがなかったとはいえ、予想外のサイズである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ホームズ彗星

F2007_1104_211451s
~彗星はもともと突然現れるがこれはかなり特別~
(07.11.04 APS-C500mm画角で撮影)

突然の訪問者に驚かされた。10月末に急激な増光(アウトバースト)が見つかり、その後さらに増光したホームズ彗星である。
増光直前の17等級という明るさから、一気に2等級後半くらいまで明るくなった。1等級は6等級の100倍の明るさで、1つの等級の差は約2.5倍であるから、実に14等級の差はなんと40万倍もの増光があったということになる。

彗星という天体は、太陽を1つの重心とした楕円か双曲線の軌道をを描く、汚れた雪だるまのようなイメージのもので、明るく見える彗星の多くは、遠方から飛来して太陽の近くまでくると、その構成物をガス状に吹きだし、それが太陽風に流されて太陽とは反対方向へ尾を形成する。尾は、彗星自体の進行方向とはあまり関係がない。あくまで太陽と反対方向へ延びているところがポイントである。

通常の彗星にしても、急に明るくなること自体は変わらない。まさに彗星のごとく現れる。しかし、それは、上記のように太陽に近づいた結果として、近づくにしたがい比較的急に増光してはゆくが、ほんの数時間、数日でこんなに大増光することはない。

今回のホームズ彗星は通常パターンでいま見えているのではない。この彗星は、さほど細長い楕円軌道ではなく、離れても木星の軌道付近、近付いても火星の軌道付近より外側という具合に、木星の重力で捉えられたような軌道を回る彗星のグループの1つであると思う。今年の5月に既に太陽に最接近し、現在少しづつ離れつつあるところであるが、なんらかの弾みで、その構成物を急速大量に放出したものと思われる。

そして、面白いというべきかどうか、ちょうど太陽からみて地球の向こう側の位置にあるため、地球からは真後ろに尾を引いている位置関係となり、その尾を長く引いた見慣れた彗星の姿ではなく、まん丸ななんだか不思議なガス体が宙に浮かんでいる感じである。
11月4日に双眼鏡や望遠鏡で見たところでは、満月の半分くらいのぼんやりした見慣れぬ物体としてペルセウス座の方向に見え、肉眼でも、一見比較的明るい星、よく見るとぼんやりと面積を持った天体に見える。

このような彗星の大増光を見ることが出来るのは一生のうちにもそうはない。ここ数日の間、この突然の訪問者の不思議な姿を楽しく追っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

つきしろ(月白)

F2007_1029_220706sp
~秋はやはり野の草と月~

文字の上で、月のイメージはいつも幻想的である。あるときは煌々と、またあるときは朧げに、その青白い光から発せられるものが、見上げる者の心に対して、清廉でいることを求めている意思さえ持っているような強い印象でありながらも、あくまでも静かであって冷淡である。

このところ、日本の「かぐや」をはじめ、各国で最新の技術を盛りこんだ探査機器が次々と送り込まれていて、にわかに注目を集めている月ではあるが、地上から見上げる姿は、いつも変わらない。

さて、秋の野の草をかき分けて進むと、セイタカアワダチソウとススキの向こうから、ぽっかりと月が浮かび上がってきた。満月ではないのだが、秋の草の色、そして青い空にもぴったりくる。

秋の野と月といえば、脳裏に浮かぶのは、いつのころだったか、一面のススキ野原の向こうから満月が昇り、銀色の穂が風に静かに揺れながら、月の光にさあさらと光っていた光景である。あのような素晴らしい光景を、また何処かで見たいものだと思う。
月の光はそのときも幻想的だった。

満月かそれよりいくぶん暦の進んだ月が昇る直前には、山の端や地平の向こうの東の空が、ぼんやりと明るくなるのを見ることができる。この明かりを「つきしろ」というが、しろには「白」を当てるのか「代」なのかよく知らない。月で空がうっすら白むのだから、「白」でよさそうな気はする。
ともかく、つきしろとは、またまた、幻想的な響きのある名前である。

ただ、そうはいっても、いざ地平から月の本体が昇ってくると、これがまた白ではなくて、夕日のようにおどろおどろしく赤い月が昇ってきたりするから、そこにはまた別のインパクトを覚えるものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

八重山を歩く(7) 南十字星

F2007_0511_202528
~港の星はよく見えたけれど・・・~

珊瑚礁に囲まれて波静かな渚は、波の音さえほとんどしない。もちろん、実際には、いろいろな音が聞こえているが、なにぶん、常時において波は荒く風の強い九十九里の海を見なれて育っている自分には、そのレベルはもはや無音にさえ感じる。

日が落ちて、静かな渚に闇が降りても独特の雰囲気がある。そして、見上げれば星空の様子が違う。星空が違うといえば、人里離れた地や山でときおり出あうことのある、信じられないほどの数の星が見える暗い空も確かに見慣れたものと大きく違うのであるが、この南に遠く離れた島では、星の見える位置そのものがかなり違うことに驚かされる。

北半球では、初めから天の北極まで見えているから、北に行った場合には、たとえどんなに北に行っても、自分の住まいから見ることのない星が、新たに見えるようにはならないが、逆に南に行った場合には、南に行った分だけ、天の南極に近い星が見えるようになってくる。

石垣島は、日本の最南端に近い緯度にある。自分の住まいからでは南の地平線の向こうから絶対に顔を出すことのなかった星達が、ここでなら見えるというのは魅力である。

さて、実際の星空の方はどうだったかといえば、南十字座の4つの星、ケンタウルス座のα星とβ星といった、南の星空でも特に代表的な星達が、この時期の宵に観望の好機となる。

そして、石垣滞在中は、日中の間ずっと雲一つないような晴天ではあった。そうなれば、これはもう、さぞかしキレイな星空が見えてもよさそうであるが、現実は、そんなに甘くない。

晴天のように見える青空は、実際には、空全体に薄っすらと雲が掛かったようなかなり霞んだ空であったため、太陽はともかく、星の見え加減には大きな影響があった。

霞空では空の低いところほど光が通らない。いくら、石垣が南にあるとはいっても、前記のように本土では見れない星々の高度はかなり南に低く、その霞んだ低空に、南十字星の姿を見つけることは残念ながらかなわなかった。

八重山は、平年なら雨季である。せっかくの晴天なので、夕日が海に沈むのを見に行ったのだが、太陽でさえも、雲はないのに水平線に達する前に光が届かなくなってしまうくらいの透明度であったから、低空に星が見えなかったとしてもしかたあるまい。

このようなわけで、星空の方は、いつもとは少々位置が変わって見える馴染みある星々が天頂付近に見えたのがせいぜいで、かなりいいところまで条件が揃いつつも、南の星との出会いは、今一歩で果たせなかったのは残念だった。
(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

N20070104144917_2
~内暈・幻日・環天頂アーク・ラテラルアーク~

子供の頃、家の玄関にあった鏡の端に冬の陽射しが差し込むと、鏡はプリズムとなって、玄関の白い壁には虹が投影され、それをうっとり眺めたものだった。太陽の創りだす光彩はいつも神々しい。

ひと晩前の月には、見事な月暈が掛かっていたのであるが、この日の昼に空を見上げると、太陽がすばらしく、そして、バリエーション豊富に薔薇色の暈を見せてくれていた。

日暈は、水滴による虹と違い、高層の氷晶によって光が屈折・反射して見られるもので、六角柱形状の氷の結晶に対する太陽光の入射角度により様々な方向に屈折、反射が起きて、各種の環や弧などの形状となって現われる。

おそらく一般に日暈といわれているのは内暈のことで、これは、中心の太陽から半径22度の視角度に環となって見える。また、太陽の水平位置左右の内暈と重なって又はやや外側に太陽のような明るい部分が現われることがあるが、これが幻日である。

このへんまでは、比較的よく知られているが、暈は非常に奥が深く、Kasan20070104144917_1ここでそのすべては語れないので、追々機会を見て紹介したいとは思うが、これらはみな、とても幻想的なものであり、中には非常に稀な現象もあるので、これらを見ると何かとても幸せな気分になれる。

ひとまずは、この日の午後に見えたものの名前だけでも紹介しておく。
上の画像では、14:49の低めの位置の太陽に対し、それを囲むような「内環」、また、太陽の左右方向(画像は右だけ撮影)の内環あたりに明るいスポットの「幻日」、そして、内環よりずっと外側で天頂近くに、内環と逆に太陽方向に膨らんだ弧の形ではっきりした虹色の「環天頂アーク」、さらに、環天頂アークより内側にその反対向きの弧の形状で「ラテラルアーク」が見えている。

また、下の画像は、だいぶ日没に近づいた15:46の太陽であるが、こちらでも、「内環」「幻日」が見えているほか、太陽の下に太陽に匹敵する明るさの柱状でN200701041546521_2「太陽柱」(成因が反射のため虹色にはならない)が見えている。

これらこの日に見えた現象のほかにも、「外環」、「タンジェントアーク」、「環水平アーク」などといった日暈の数々がある。

(画像は上下とも07.1.4千葉県内)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

気嵐(けあらし)・蒸気霧

N20061125081822
~渦を巻き立ち上る朝靄~

朝、訪れた湖からは、渦を巻いて立ち上るように朝靄又は朝霧が湧き出していた。
それは、まるでより集めた糸が天にまで繋がっているようだった。

霧(きり)、靄(もや)、霞(かすみ)と、みな似たような小さな水滴が宙を漂う現象があって、微妙な違いがありそうではあるが、実際には、これらには、どれもさほどの違いはないのだと思う。一応、霧と靄には気象用語の定義がされていて、視界距離の数値で区分(1km未満が霧、1kmから10kmは靄)されてはいるが、一般的には、濃いものが霧、薄いものは、春なら霞でその他は靄といった程度の使い分けをしている程度ではないだろうか。

さて、霧や靄などというものは、既に発生した雲のようなものの状態を指しているが、その成因にはいくつかのシステムがあって、その成因によってそれぞれ名前がある(※注)。

そして「蒸気霧」である。蒸気霧というのは、朝など、冷やされた空気の塊が暖かな水をたたえた海や湖や川の水面上に流れ込んできたとき、水蒸気の急激な蒸発によって霧が発生する状態であり、気象用語でこのように呼ばれている。

水の温度の違いはあるものの、湯船から立ち上る湯気とだいたい同じようなものである。ただ、湖沼や川では稀というほどではないにせよ、いつでも見られるものではなく、寒い日の朝ということもあって、目の前で、水面や地面などから湧くように発生しているのを見るとなかなか感動する。

一般用語としては、「気嵐」(けあらし)とも言われ、英語では「frost smoke」又は「ice fog」などと言うらしい。

無風状態でのみごとな気嵐では、湧き上がる水蒸気の作る小さな上昇気流が渦を巻き、細長く数メートルの高さまで立ち上る様子が見られて、大変に興味深いものである。

(※注) 冷たい海面を山から暖かい風が吹き渡って生じる「移流霧」、 晴れた日の放射冷却によって生じる「放射霧」、温暖前線によって降る暖かな雨が蒸発し、それが冷たい空気に触れて生じる「前線霧」、山の斜面を急速にはい上がった空気が冷えて生じる「滑昇霧」などがあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

金星と土星の接近

N20060827044737
Photo : Nikon D200 / Tokina AT-X270 AF 28-70mm F2.8
~お楽しみは東雲に隠れてしまった~

東の空が白む前の早朝に床を出て星空を見上げた。

林道に出かけるときは、たいてい早朝に出るか、前夜から出かけるので、そのときも空は見上げはするが、今日は珍しく地元でじっくりと晩秋の空(いまごろの日の出前の空は晩秋から初冬の星々が見えている)を見上げることができた。
地元にしては、8月初めに赤城で見た星空ほどではないにしろ、月がなく、雲もない澄んだなかなかきれいな空だった。

早朝に床を出たのは、今日(8月27日)の日の出前後に金星と土星が4分角(1分角は1度の60分の1)まで接近するという、珍しい光景を見たかったからである。

もっとも、最も接近する時間は日が昇ってから3時間半以上も経った8時40分ころであるので、比較的口径のある望遠鏡(少なくとも10cmくらいは必要)で追尾していないと厳しいだろうが、まだ日の出る前の薄暗いうちでも、かなり接近しているはずで、見れるところまで見てみようと思っていた。

4分角というと、肉眼では2つの惑星が2つに分かれて見えるかどうかの角度であり、土星の輪が十分に見える大きさまで望遠鏡の倍率を上げてみても、その土星と金星とが1つの視野内に並んで収まるという角度であって、地上からはなかなか感じられない宇宙の立体感というものを感じられるのではないだろうか。

無数に見える恒星は、それぞれがあまりにも遠く、どんな大きな望遠鏡でも点にしか見えない。点と点を見比べても、あまり距離感というものは沸いてこないのだが、惑星のような一定の視面積を持った天体同士が並んで見えると、奥行きの距離感というものがかなり感じられるようになる。月の向こうに土星が隠れるような現象では、月の外縁は、まさに「隣りの星の地平線」そのものである。

さて、明るい惑星同士のこれだけの接近(地球からの観測で見た目の角度が近づくだけで両惑星の距離が実際に近づくという意味ではない)を特定の場所から見ることが出来るのは、10年や20年に1度くらいのことと思うので、期待に胸膨らませて金星と土星が東の空から昇ってくるのを待っていた。

ところが、なんとも空しいことに、それまで澄んでいた空にモヤモヤした雲がやってきて、東の空だけ隠してしまい。ついにはそのまま日が昇っても曇り空という残念なこととなった。
やれやれ、こうした気象のいたずらや、仕事への出勤などの事情も含めたら、10年や20年に1度どころではなく、一生に1度か2度見られるかどうかというくらいのことになってしまうのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

惑星の定義

N20060317234915
Photo : Nikon D200 / MC RUBINAR MACRO 1000mm-f10
~それならば月は惑星ではないのか?~

新聞の見出しは「太陽系の惑星 新たに3個」。

現実に比べて、やけにセンセーショナルな表題なのは新聞などのメディアの常だろうが、かなりピンと来ない見出しである。

これは、国際天文学連合において近々太陽系の「惑星」の定義づけを行おうとする動きの中で先行的に示された定義案を言っているのであるが、そもそも、人間という存在に関わらず、そこに元々存在している天体について、人間の感性の範囲で定義するのであるから、どうにでもなるといえばどうにでもなることであって、なにか新しい天体や法則などが発見されたりしたものとはまったく次元の違う話である。

また、今回の定義は正確に言えば「惑星」ではなくて、「大惑星」又は「大きな惑星」の定義なのではないか(後述)。

さらに、この定義による分類は、学会で厳密な分類をしなければならないときのみに必要な定義付けの域を出ない、まさに専門的な範囲内での話になってしまうので、おそらくは、今回話が一段落したら、この定義は一般にはどうでもよい話になってしまうのではないかと想像される。
まあ、この定義が必要な主たる理由は、近年相次いで発見されている冥王星以遠を回る比較的大きな天体の位置づけに苦慮していることにあるのだとは思うが。

私がずっと持っていた「惑星」というおぼろげな定義は、「恒星に対しその周りを円に近い楕円の公転軌道を持って周回する天体」で、彗星のような長軸と短軸の差が大きな楕円軌道のものは除かれるのかなといったところだ。

したがって、一般にいわれる9つの惑星以外の小さな天体でも、円に近い軌道で太陽の周りを回る、例えば火星と木星の公転軌道の間に公転軌道を持つ小惑星のセレスやパラスなどももちろん惑星であると理解していたし、実際にこれらは現に「惑星」である。

そのうえで、水星から冥王星までの9つの惑星は、大きな惑星、それ以外を小さな惑星という、1レベル下のくくりでみるのが自然である。ただ、冥王星の公転軌道は、かなり円からかけ離れた楕円の軌道であることから見ても、また、本体の大きさから見ても、他の8つとはやや整合性がなく、正直なところ大きな惑星からははずしたいと感じる(水星の公転軌道も同様にやや危ないのだが)。

今回公表された定義で、大きさについての定義は、質量地球の1万分の1、直径800km以上という数値である。そして、これに従って、小惑星セレスと、冥王星の外側に2003年に発見されていた新惑星の2003UB313を新たに「惑星」とするというところまでは、単に定義なのだから、それはそれでわからなくもない。しかし、解りづらいのは、新たに惑星とする候補3つの残る1つ、これまで冥王星の衛星とされてきたカロンであるが、確かに、冥王星とさほど変わらないの大きさの比率などから見て、冥王星を二重惑星と位置づけるということなのだろうが、そうであれば、地球と月も似たような関係であるし(惑星と衛星の関係としては大きさが近い)、その直径だけでいったら、カロンやセレスより大きな衛星など月以外にもたくさんある。

衛星とは、惑星を周回する公転軌道を持つ天体のことではあるけれども、惑星を周回と言いつつも、実は惑星も衛星に対して不動であるわけでなく、正確に言えば互いに回りあっている。ただ、大差のある重量差ゆえに、衛星のみが惑星の周りを回っているように扱っても差し支えない範囲であると言うに過ぎないから、確かにどんな衛星と言えども、主惑星とともに二重もしくは多重惑星とみることも出来なくはない。
そうであれば、なおさら、どうしてカロンだけが惑星扱いとなるかはやや解りづらい。

個人的には、天文界の歴史背景を重んじたとしても、まだ見ぬ未知の天体を別とすれば、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星までを科学的もしくは合理的な分類としてでなく、観念上の分類として「大きな惑星」とするのがやはり自然に感じる。
なお、それ以外の、太陽を公転周回する彗星も含めた天体は、案外単純でなく、ここで今回だけでは書ききれない様々な形態、主にその天体の成因による仲間分けが考えられるし、衛星とされている天体もあわせて考えると、太陽系の出来あがりかたについての現在までの理解の範囲では、合理的分類はなかなか難しい気がする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

真夏の太陽と近日点

N20060723104152
Photo : Nikon D200 / AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
木陰が恋しい夏の空

梅雨は明けたということであるが、今年は本当の夏がなかなか来ない。
だいたい、自分の頭上の空模様はともかく、天気図をみても、発達した太平洋高気圧の姿など見当たらず、まったく夏型とは程遠い気圧配置となっている。

ともあれ、夏といえば、やはり照りつける太陽である。
子供の頃は、一人で虫網や玉網を持ってよく出かけた。出がけには、玄関先で麦わら帽子を無理やりかぶらされたものだが、あのチクチクする感触がいやで、家を出るとすぐ脱いでしまったものだ。

真夏というのは、7月の終わりから8月初旬を差すものと認識しているが、この時期の太陽というのは、夏至はもうずいぶん前に(6月下旬)過ぎ去って、既に南中高度は日に日に低下し始めている。

にもかかわらず、気温はやはり夏至の頃より今の方が高くなりやすいのが普通である。これは、真冬でも同じことであるが、太陽熱で生じる四季も、ストレートに入射熱量の絶対値だけで左右されるのではなく、地球がすぐには暖まらない、また、いったん暖まったら熱を簡単には逃がさない大地や海や大気に覆われているためであって、寒暖のピークというのは、日射の強さのピークより少々遅れて訪れる。

夏の太陽は、冬に比べると遥かに頭上近くを通ってゆくのだが、それだけでなく、どことなく冬より近くて力強くも感じる。
では、実際の太陽までの距離というのはどうであろうか。

地球は真円に近い楕円軌道で太陽の周りを年に一回公転しているので、その軌道上には太陽に最も近づく点(近日点)と、最も離れる点(遠日点)があり、地球は年に一回ずつそれらを通過することになるわけだが、地球が太陽に最も近づく近日点は、実は1月初旬ごろ、逆に離れる遠日点は7月初旬ごろであって、北半球は近日点が冬である。

したがって、日本で見た太陽が、冬より夏の方が近く感じるとしても、それは、深い入射角(太陽の高度が高い)と気温から感じるイメージに過ぎず、微妙な数値では、冬の方が太陽は近く大きいことがわかる。

そうはいっても、それこそ地球の公転軌道はさほどひしゃげた楕円ではないので、遠近の差はごく僅かであって、入射角と気温から感じるイメージのほうが優先しても不思議はないかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

月暈/つきがさ

N20060315-232752
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
   (18mm ISO100 15" F3.5)

~朧な月もまた春の夜らしい~

数日前の満月の晩は雲がほとんどなく、綺麗に丸い月を眺めることが出来た。上空には寒気が入っているのか、湿気が入っているのか、月を眺めているうちに、珍しく月明かりの中での長い飛行機雲も見られた。

天気も下り坂なのかもしれないな・・・などと考えごとをしていたので、うっかり「月夜の飛行機雲」なんていう恰好の撮影材料もそのまま逃してしまったが、そのうちに今度は月に薄い高層雲が掛かり、暈(かさ)が現われた。

暈というのは、よく太陽に薄い雲がかかったとき見ることがあると思うのだが、あの周囲に現れる光の輪のようなものをいう。太陽の周囲に現れたものは日暈(ひがさ)ともいい、月の周囲に現れる月暈(つきがさ)と言って区別される。

暈は、太陽や月の前面にある雲の氷晶が、プリズムのように太陽や月の光を屈折させていることで見えるが、この氷晶は六角柱の形であることが多く、ここでは詳細に触れないが、六角中のどこから光が入って出てゆくかで、屈折する角度が変わる。太陽や月からの見かけ上の半径約22度の円に見えるものが一番見えやすく、46度の円に見える暈が現れることもあって、前者を内暈、後者を外暈という。

そういうデータを見たことはないのだが、月の暈は、春のこの時期によく見るような気もする。「朧月夜」などという春の歌があるくらいだから、気象条件的に高層雲などが出やすいのだろうか。

田畑の周りでは、菜の花が満開でツクシもたくさん顔を出した、カエルの声も少しずつ聞え始め、日増しに春らしさが増しているが、暈を掛けた朧月をあぜ道から眺めるのもまた、いかにも春を彩る風景らしいと思える。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

天測点(2)

N20060225-095759
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~茨城の天測点は明るい山頂~

前にも書いた「天測点」である。
昨日、茨城の高鈴山に登ったので、また出逢うことが出来た。いや、登ったとはいっても、自身の足ではなく車の動力に頼っての話だが、山頂はとても気持ちよい景色が広がっていた。さすが1等三角点と天測点のある山だと思う。

これが目的で登ってきたわけではなかったので、山頂に立ち三角点を確認した後、すぐ隣にあの八角柱があったのに初めて気が付き「おおっ」と驚き感激してしまった。そうそう、前に天測点の記事を書いたときには、この高鈴山の天測点には、遠からず出会えそうだなと思っていたのだった。

さて、天測点はかつて天文測量に使った子午儀という測量器の載せ台であることは前に書いた。そしてそれは全国で48箇所設置されたらしいが、その後廃されたところもあって、最後の設置があった1958年時点での設置箇所を最終的なものとすれば、全国に45箇所ということになるらしい。

また、この八角柱には規格があるというのだから、全国45箇所の天測点はみな同じ形ということだろうか、登山趣味は少々興味あるとはいえ、かといってさほどの入れ込みでもないので無理とは思うが、全ての天測点を見てみたい気もする。

ちなみに天測点の形状は次のように規格が定められているという。
材   質:コンクリート
柱のサイズ:D65cm×H200cm
      一辺27cmの八角形
基礎の石盤:W140cm×D140cm×H50cm

地理調査所(旧国土地理院)設置の第十五号天測点に見入っていると、空から雷鳴のような凄まじい連続破裂音のようなものが降ってきた。驚いてすぐ空を見上げると、50羽近い鳩の大群が、1羽のハヤブサに急襲されたところで、音は鳩が一斉に反転した時の羽音だった。空から聞える自然の音で雷以外にこんな大きな音を聞いたのは初めてだった。
高鈴山の山頂で2度の驚きと感動を味わった。

天測点(1)へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

水面月

N20060209-215539
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~蒼い光、水面に浮んで~

今夜も晴れている。
湯上りに、いつものように庭に出て夜空を眺めた。冴え冴えとした月の蒼白い光がまぶしくて、星々は輝きを沈めている。

庭に作ってみた小さな池。ちょっと味気のない水溜り。春になったら、ここにかえるの卵でも放ってみようかななどと思っているのだが、この小さな水面に月が浮んでいた。
小さな池だけに波はなく、月は歪みなく綺麗に浮いている。
いつもと左右反対の月。

もういくときも待たずに水面は氷が張るだろう。そのときそこに閉じ込められた月の光は、明日の朝、朝日が昇ると、人知れずキラキラと溶け出していくに違いない。

現実は、そんなにファンタジックじゃないけれども、時折そんなことでもありそうな幸せな気持ちに浸れるときもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流星

N20060128-214509
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
(18mm 0'04" F3.5 ISO400)
~願いより感動が先に~

流れ星というものが、夜空の星が落ちるのではないということに気づいた頃は、世の中の色々な仕組みが次々とわかり始めて本当に楽しい頃だった。

星が落ちるという見方は、大地の上の天蓋のような天とそこに張り付いた星というものの存在を前提とした発想だったから、今も昔も合理主義な自分にとっては、そのように信じたのはかなり幼い頃までのはなしで、そんなロマンチックな見方は、もうできなくなってしまったのだけれど、それでも、一つ一つ違う明るさ、違う長さ、ちがう速さ、違う色、そして明るさが著しく変わったり、空に跡を残したり・・・と、そんな流れ星に憧れみたいなものはある。

流星群のような、方向の定まったものではなく、散発の大きな流星に出会ったときはひときわうれしく感じる。「寿星・カノープス」の項に書いたけれども、たまたま夜の街を1枚だけ撮影したとき、その時間・その視界にピッタリはまって、レンズに映ってくれたこの流星は、途中で一瞬の大きな煌きと揺らぎを見せて地平方向へ消えていった。

こちらから願い事を発するよりも、いつもこちらが受ける感銘のほうが大きいような気がする。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

寿星・カノープス

N20060128-220304
Photo:Nikon D200/Tokina AT-X M100mm F2.8(1'58"F2.8)
~南極老人星が南天をゆく~

先週の大雪でまだ地元の山には雪が残り、車とはいえ夜間に登るのは少々気が引けたが、観望の好機を逃さぬよう長寿星を撮影に行ってきた。

長寿星・・・りゅうこつ座のカノープスのことである。見た目も画像でも、一見では赤っぽくて、ちょっとぱっとしない星にも見えてしまうが、実はカノープスは-0.7等という素晴らしい明るさをもつ白い星で、それはシリウスに次いで全天で二番目に明るい恒星なのである。

ただ、南半球ならその明るさを存分に見ることも出来るのだが、北半球の日本にあって関東あたりでは、南の地平線すれすれのところでやっと見えるため、明るさも大きく減じ、また、太陽や月が昇ったり沈んだりするときに赤く見えるのと同じ理由で、やや不気味に赤い色を呈している。

いや、実際には本当に現れる位置が低空であって、南の空が大きく開けていなければならない上に、街明かりの影響などもあり、見るだけでも案外簡単ではなく、星空にさほど興味のない方には、ほとんど知られていないのかもしれない。この星が見られる北限は、計算上福島県のいわきあたりとなるようだが、実際には大気中での光の屈折や、山から見る場合などもあり、阿武隈山地北部でも見れるようである。

そんな、見えずらさもあってか、その昔、中国ではこの星のことを「南極老人星」とか「寿星」と呼び、この星を見るのは縁起がよいとか一目見ると寿命がのびるとまで言われていた。「南極老人」というのは、あの七福神の寿老人とか福禄寿のような神様のようで、長寿をつかさどる神様であるらしい。

こんな真冬でも、星を眺めている時間だけはついつい寒さを忘れてしまい、あとで風邪をひいたりすることが多い。けれど、今日は、吉兆が南極老人星だけではなかった。
星を写したついでに、街の夜景でも撮っていこうかと、レンズを下に向け街の明かるさに合わせ、夜にしては短めの4秒ほどのシャッターを切ったのだが、その短い時間にピッタリ合わせて、かなり明るい火球といってもいいほどの流星が、画面真ん中に出現してくれたのだった。これはラッキー。しっかり写ったのを確認して満足し、最後まで寒さを忘れたまま帰宅した。(このとき見た流星へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

食と掩蔽(2)

N20041014_0007
Photo:Nikon E5700
~日食も掩蔽~

前回は主に月が他の星を隠すことを「掩蔽」(えんぺい)というとしたが、「主に」と書いたように、もっと詳しく見れば、必ずしも他の星を隠す母体が月でなくても「掩蔽」はある。
定義的に書くと、「ある観測地から見て、ある天体が他の天体を隠す」ものはみな掩蔽という。例えば木星の本体がその衛星を隠す場合も掩蔽の一種であるし、木星がより遠方にある恒星を隠すこともある。
かなり、特殊なものでは、光度の変わる星である変光星。この変光星の中で「食変光星」というものがあるが、これは、1つに見えても実は2つの星が互いに回る連星系であるもので、片方の星がもう片方の星を隠すとき、その分、光度の減光を生じるものであり、これも「掩蔽」になるだろう。

おや、そうすると、天文現象の中で「食」と言われるものはいろいろあるのだが、きっちり区分すると、日食は掩蔽であり、地球の影に月が入ってほとんど見えなくなる月食は、掩蔽ではないことになる。また、先に木星の話しを出したが、木星本体の影にその衛星が入って見えなくなる「衛星食」も、掩蔽ではないということになる。

このように、広い意味での「食」には、「掩蔽」と影が原因となる「食」があることがわかる。掩蔽の定義のように、狭い意味の「食」をいうと「恒星の光が届かない区域に自ら光を出さない天体が入ってあたかも隠れたように見えなくなる」状態が「食」となるだろうか。

そういえば、人工衛星、特に馴染みのある放送衛星や気象観測衛星も地球の影に入って太陽光発電が出来ないため、一時機能を停止するときも「衛星食」という語を使っていたと思う。
(画像は04.10.14自宅からの部分日食)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

食と掩蔽(1)

D2H_0027
Photo:Nikon D200/BORG 500mm(月と背景を別個にレベル補正)
~真珠星は月に沈むか~

今朝方、西日本ではおとめ座のα星「スピカ」の食が見られたはずである。残念ながら、南関東の我が家からでは月のスレスレを通過してしまった。もっとも、食の開始が7時台後半と日の出後であるので、西日本であっても、月は見えるが、スピカの方は1等星とはいえ、昼光の中で条件と環境が整っていないとこれを見ることはできないし、我が家からのスレスレ通過も実は確認できていない。
画像のほうは、自宅で撮影した、まだ食の2時間近く前になる5:55の接近画像である。

星を食う?日食や月食は、その現象面を眺めたとき、「食」というイメージには合うといえるが、星は「星食」というのより掩蔽(えんぺい)といったほうが合うような気がする・・・
掩蔽というのは、主に月に星が隠されることをいい、先にも使ったように「星食」又は単に「食」とも言われる。これは、地球から見た月の通り道の上にある恒星や惑星の前を月が通り過ぎる状態※であって、文字通り星が月に覆い隠されるように見えるのだが、月は満月以外のとき、明るい部分と暗い部分があるので、食の始まりや終わりが明るい月面である場合もあり、暗い部分(見た目では空のように見える)であることもあるところが面白い。

おとめ座のスピカは青白い星である。星の色は表面温度で決まり、赤黄白青という感じに高温になる(実際にはスペクトルどおり赤橙黄緑青紫となるのだろうが、人の目にはそう映らない)のであるが、太陽の約6000度に対して、スピカは2万度前後といわれる。
その青さから清純なイメージに繋がっておとめ座が出来たようにもいわれるが、真偽はともかく、春の南天に一つ青く輝くこの星は、確かに清らかなイメージがある。日本では「真珠星」と呼ばれたとか。

上記では、食も掩蔽もごちゃ混ぜに使ったが、実は、正確に言うと「食」と「掩蔽」は別物である(食と掩蔽(2)へつづく)。

※月はみなさんご存知の通り、毎日天球上の位置を少しずつ東に移動し、約一月かけて一周している。この月が天球上を移動する経路を「白道」ということは、前にも1項目設けて簡単に触れた。白道の上に星があれば、月がそこを通過するときに掩蔽が起きる。月は天球上に一定の画角(面積のようなもの)があるので、正確には、月の中心が通る線である白道の月の半径分の幅をもった帯になる。また、白道は天球に固定された線ではなく、一周ごとにずれがあるので(このあたりも「白道」の項を参照されたい)、かなりたくさんの星に掩蔽の可能性はある。しかし、実際の観測には、月の明るさと星の明るさに相当開きがあることや、月が太陽周辺でなく、また基本的には空の暗い夜間に起きることなどの条件が重なるので、1等星の食のような楽しんで見られるようなものは、それほど多いわけではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

うろこぐも/巻積雲

D2H_0161
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~明日は雨?空にうろこが現われた~

私は寒がりではある。けれども昨夏の猛暑といい、この冬の厳冬といい、なにか気象がハッキリしていて、夏は夏らしく、冬は冬らしく、メリハリがあってよろしいなどと感じてしまう。みなさんはいかがだろう。
そんな寒さ厳しい冬に久しぶりの穏やかな一日が訪れた。

所用を済ませ、午後は飼いウサギを庭に放って、のんびりとした時間を楽しんでいると、西に傾き始めたものの、まだ暖かな太陽の光がふと翳を落としたので、おやっと空を見上げた。

西の空いっぱいに広がったうろこ雲、鰯雲とも鯖雲ともいう。いずれも群れや同じものの連続を表すような名前である。正式な雲の名前(=基本雲形10種)でいうと、「巻積雲」という。同じく群れを連想させる名前でひつじ雲というのもあるが、これは「巻積雲」より雲の出来る高さが少し低い「高積雲」に区分される。

この雲は、天気の下り坂の前兆で現われることが多いとされる。実際、今日のようにここ数日のうちでも特に穏やかで過ごしやすい日などに現われることが多く、翌日には雨や雪が来る。

また、空の片隅にさっと現われたかと思うと、気が付けば見る見るうちに空一面に広がり、そして、さほど長い時間この美しい縞々模様はとどまらることなく、いつしかそれまで晴れていた空を曇り空に変えてしまう。

「巻積雲」は、「巻雲」「巻層雲」とともに、雲の中でも一番高いところに出来るグループで、たいてい氷の小さな粒で出来ている。多くは地上にある寒冷前線などに関連し、その上層部に広がった不連続面に沿って出来たりするので、昔からの言い伝えどおり天候の下り坂に出現することが多いようだ。

また、連続して見られるさざなみや砂の風紋にも似た雲の波のような模様が、ときには空一面に広がることから、古くから最も美しい雲とも言われている。

暖かな休日も終わってしまった。明日はぐずついた空模様の下で出勤だろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

氷の花の紋2

N20060108-141416
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~近隣のこの池にも同じ模様が~

前投稿後すぐに近隣の他の池をいくつか見て回った。幸い家の周辺には湖沼は数多い。
すると、他の池にも規模の大小はあるが、やはり同様の文様が湖面の氷に浮き出ていた。

そうしてみると、

①このあたりでは池に氷が張ること自体が最近少なく、その上に雪が積もることはなお珍しいことで、いつもの冬季の条件では見かけたことがないこと、
②文様の丸い部分は、雪がいったん水を含み再度凍ったときのような色合いで、やや厚みがあること、
③周辺の池に一様に文様は見られたこと、
④文様のまん中には穴が見られ、文様はその穴を中心としたほぼ真円状であること、
⑤あまり意識はしていなかったが、全く初めてみたのではなく、どこか(おそらくスキーの行き返りでの景色)では見た覚えがある現象であること

などから考えて、やはり一昨日の朝凍った湖面の薄氷の上に、夜になって雪がうっすらと積もり、そこに何らかの穴や亀裂を通して毛細管現象のごとく染み出した水が描いた円状の模様であって、この地域に限らなければ、特別珍しいものではないのではないかと結論したがどうだろう。

やはり、これは氷紋の一種なのだろうか

| | コメント (2) | トラックバック (0)

氷の花の紋

N20060107-113526
Photo:Nikon E5700
~湖面の氷に花開く~

一昨日の晩にほんの少し雪が降った。積もったいうほどにはやや足りないのかもしれないが、それでも1cm足らずの雪で近隣の景色はうっすらと雪化粧して一変した。
昨朝、このあたりでは稀な雪景色を楽しむために、近所一帯を散策していると、家からそう遠くないところにある池で、見慣れぬ斑紋が見られた。

これはどうやって出来たのか、よく判らない。
「氷紋」といって、氷上の積雪に氷にあいた穴から出た水が染み出し、再び結氷して出来た模様とされるものがあるが、これも湖面の氷上に咲いた花のようなものも「凍紋」だろうか。「氷の花」や「霜の花」などというのとは違う。
近所の池で見られたこともあるし、特に珍しいものではないだろうと思うのだが、調べてみても同じようなものが見当たらなかった。

そもそもこの模様の成因が頭を使わせてくれる。やはり湖面の氷上に雪が少しでもあったから出来たのか。中央の穴から水が出たのだとすれば、その穴はなぜ出来たか。降った雪は氷に影響を与えるほど多くはなかったはずだが、氷もこの温暖な地では微妙に薄い。

自然の作り出す色、模様、形はいつも目を楽しませてくれるとともに、想像も広げてくれる。

※投稿後、すぐに調査した結果を「氷の花の紋2」に追記

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝の予感

N20051230-074331
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~朝の海に鳥が翔る~

日の昇る朝は、感覚が澄まされている気がする。
光に敏感で音にも敏感。少しの動きに神経が反応する。

これに対して日が沈む夕方は、あたりが真っ暗になったと感じていても、実際には、まだ空はかなり明るいということが、昨夏に房総の蛍を見に行ったときに実感としてよく分かったように、特に明かりについては、あまり敏感ではない。明るい昼を過ごした後なのだから、ある程度当たり前なのかもしれないが。

同じ明るさの天文薄明(太陽の中心が水平線下の角度でおよそ18°までのときいう)でも、朝の薄明ならば、夕方の薄明かりを敏感に感じる蛍でなくとも、もっと敏感に感じると思う。車で早朝に遠方へ出かけることは多いが、朝の明るさの予感のようなものは、かなり早い時間に感じられる。

朝に鳴く鳥が、一見真っ暗なうちからその鳴き声を上げるとき、空をよくよく見てみれば、うっすら朝の予感を感じ取ることが出来ると思う。

冬の海。白々と明けた朝の空へ、数え切れないほどの海鳥が渡っていた。

新しい年が明けました
やはり0:00に日付が変わることよりも
朝の明け行くさまにこそ新年の訪れを感じますね
本年もよろしくお願いします

| | コメント (2) | トラックバック (0)

朝の名前

N20050821_001
Photo:Nikon E5700
~窓を開けば朝の色~

前項で枕草子「春は曙・・・」がでたので、ついでに朝の話。
だいたい「曙」などというが、ちなみにそれがどんな状態、又は具体的な時間帯なのか分かりますか?

少し前、家内に「朝が明けてゆく順番に答えてごらん」と出題された。「曙」「暁」「朝ぼらけ」「東雲」そして「朝」なるそれぞれの朝。正直まるで分からなかった。

朝の態様は、日の出より40分くらいは前の空はほとんど暗い「暁」、明るさをやや実感する日の出前30分頃の「東雲」、空はすっかり白んで日の出15分前頃の「曙」、 日が出る寸前・・・およそ5分前くらいの「朝ぼらけ」、そして「朝」。
なんとなく経験から言うと、明け方の白み始めというのは、もう少し早く始まるように思えるが、まあ、少なくとも順番はそんな感じであるようだ。

人の生活も、もとは太陽の昇降とともにあったのだろうが、いつしか夕方から夜の方向にずっとシフトしてしまい、朝は日が昇ってから活動、寝るのは日が落ちて6時間以上。そんな生活形態が普通になってしまったから、朝の微妙な差なんて感じる前に、触れる機会さえも減ってしまったのかもしれない。

しかし、そうは言っても朝とは逆の夕方についてであっても、薄暮や黄昏などという言葉の元来の意味など、あまり明確に知らないでいる。

【画像:Nikon E5700】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

冬も夕暮れ

N20051227-162614
Photo:Nikon D200/AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm
~夕日が落ちた西の空に枯れススキが揺れていた~

寒い冬だが、空はまるで澄みきって、原色に染まる夕暮れなどは特にいいものである。

夕暮れといえば「秋は夕暮れ」か。確かにそれはそれでいいけれども、弱々しくも頼るほかない冬の陽が、西の空から山の向こうへ没してゆき、オレンジに染まる地平近く、そして頭上にかけて続く黄色から藍へのグラデュエーションは、寒さも忘れてずっと見ていたくなる美しさがある。

四季それぞれの美しい時間。枕草子でいえば、春は曙なのだろうか。夏は夜、秋が・・・いや、やはり必ずしもみながみなそうではないのだろう。そろぞれ色々な想いがあって季節ごとに好きな時間帯というものがあるのではないかと思う。

おそらく、それを思うとき、それぞれの情景が浮かんでくるのではないだろうか。私なら、春は昼前の陽だまりでこごんで見るタンポポを、夏ならば日の出前に川面の上に漂いだす朝靄を、秋は日暮れ前の長い自分の影を落とした田畑を、そして冬は日暮直後の西の空に千切れ雲が染まって浮かぶのを目に浮かべる。きっと過去に見た実際の情景に重ねて見ているのではないかと思う。

生まれ育った土地を遠く離れて、季節や気象条件が変わってくると、きっとそれらは故郷の情景になるのではないかな。

| | コメント (0)