ほんとの星空

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~安達太良山の星空~

凍てつく冬の星空は美しい、冬の夜空は、他の季節の空よりも明るい星が多くて賑やかでありながら、その突き抜けるような鋭い光は、放射冷却の空気を一層冷やすようにさえ感じる。

コートの襟を立てて歩く夜の街で、星空を見上げることなどあまりないのだけれど、ちょっと一杯飲んだ帰りなど、気まぐれにたまに見上げてみると、夏よりは星が幾分たくさん見えているような気もする。けれど、やっぱり街の空はほんとうの空ではない。2等星か3等星くらいまでしか見えないから、きれいに星座が結べない。やむなく、見えていない星まで星図の記憶をたどって頭で補正して見ているような気もする。もちろん星雲星団なんていうのはほとんど見えない。

季節は問わないが、山中で星空を見たことはおありだろうか。それは本当に降るような星の数であり、しばらく空を見上げていると、自分が星空の中に取り込まれてしまったような錯覚さえ起きる、圧倒されるほどの星の数である。むしろあまりにも星がたくさん見えすぎて、どこがどの星座か見失ってしまうくらいだといっても大げさではない。

もし、星座を結ぶだけが目的だったのなら、いつも見慣れているように、ほどほどに暗い郊外の空あたりで、ちょうどいいのかもしれない。いや、それは、夜空が人の放出する光で満たされ始めた以降に自分が育ったからなのだろう。本当の星空を知らずに育ったとまではいわないが、すっかり人里の夜空に慣れてしまっている。

本当の星空・・・空が明るくたって暗くたって、空そのものが偽物であるわけではないけれど、やっぱり澄んだ星空がいい。庭先で寒空を見上げながら、「やっぱり、冬の夜空は一つ一つの星の光に力があって、格別だなあ。」なんて感想をもらしながら、いつか磐梯の安達太良山で見た冬の星空を思い出した。

安達太良山には、「ほんとの空」があるという。その安達太良山を前にして頭上に見上げた満天の星たちは、やはり降るように瞬き、星座が結びきれないほどに数多く瞬いていて素晴らしかった。

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月食の色(ダンジョン・スケール)

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~茜色の皆既月食~

昨晩は、すばらしい皆既月食を眺めることができた。
東日本を中心に晴れ間に恵まれたようで、我が家の周辺でも低空には薄雲も見られたが、うまい具合に月のある天頂付近にほとんど雲がなく、高い位置で起きる好条件での皆既月食を堪能できた。

月食は日食と並んで注目度の高い天文現象ではあるが、皆既日食の地域限定性と視覚上のインパクトからすると、皆既月食といえども、やや地味ではある。
とはいえ、やはり、そうそう目にするものではないから、非日常的な感動があるし、まして、久しぶりの好条件。皆既前の欠け始めからじっくりと眺めさせてもらった。

本当に頭の真上のような高い位置にある月が、どんどん欠けて行き、明るい部分がなくなると、月は、極めて暗くなるものの、見えなくなるわけでなく、なんともいえない色合いを呈していた。
昨晩の皆既食中の月の色は、私には少し明るめの茜色に見えたが、同じ月を見た方はどう見えただろうか。

月食は日食と違い、観測地によって欠ける時間や見え方が大きく変わるようなことはない(もちろん、月が地平線近くに見える観測地では、暗く赤くなりやすいという違いはあるが)。上の写真は、我が家(千葉県)から見た皆既月食であるが、日本国内で雲がないところでは、同じ時、同じように見えたはずだ。

この赤っぽい色加減は、地球の大気状態が大きく影響を与えて変化するとされている。大気状態とはいっても、月の光が我々の眼に映るまでの間の大気の影響ではなく、月を照らす光源についての影響の方である。

仮に地球に大気がない場合、地球の影はただの真っ暗闇になるから、その影に入った月は、ほとんど見えないはずだ。しかし、実際には地球に大気があるため、そこを通過する太陽の光が少々内側にも曲がり込み月まで届く。地上でも大気があるから、日が沈んでもしばらく明るさが残るのと似ている。ただ、地上での夕日の色がそうであるように、大気を斜めに長く通過した光は、青い光が散乱で失われ、赤っぽくなるというわけである。

つまりは、この色の正体は、地球の夕焼け色が月に映ったものということになる。
そして、大気の状態によって変化するというのは、地上の火山噴火等の影響で、大気中の塵の量が変わると、通過光量や発色に影響するということである。

この色加減については、フランスの天文学者アンドレ・ダンジョン(1890-1967)が、独自に用いた尺度「ダンジョン・スケール」が、皆既月食の色を表すのによく使われている。

ダンジョン・スケールは、暗いほうから、黒、褐色か灰色、暗い赤、明るい赤、オレンジ、という5段階に、それぞれ0~4の尺度が割り振られるが、月の色や明るさは、目で見ても分かることである反面、数値化は個々人の感覚になるので、色見本でもみておいたほうがよさそうだ。

ところで、月食の赤っぽい色は、日没後の残照に少し照らされた顔と似たようなものということになるわけだが、ひとつ大きく違うのは、月は大気の中にはいないということである。
皆既月食のとき、月面で見る光景はどんなものなのだろうか。
月には大気がないから、地上で見上げる夕焼け空のような色付く空はない。真っ暗な空に地球が浮かび、その地球の周囲のごくわずかな薄い大気の領域が、リング状に赤々と結構な明るさで輝いてでもいるのだろうか。
その姿は、赤くて少し暗い金環食(日食)みたいな感じをイメージしているが、一度、画像でもいいから見てみたいものだ。

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霜凪

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~強風の夜に霜柱はできるだろうか~

朝、盛り上がった土を蹴飛ばすと、キラキラ光る銀の針がザラザラっと現れる。小学校のころの冬の朝には、いつもこうして、あちらこちらで枯れ草に霜の降った白い野原で、霜柱を蹴飛ばしながら登校したものだった。

霜も霜柱も、同じく氷であることに違いはない。しかし、霜柱は地中の水分が上ってきて凍り、霜は大気中の水蒸気が地表で氷結するものであるというように、同じ氷とはいえ、その生成に際して元の水の出所にはかなり違いもある。では、果たして、これらがそれぞれ生成される気象条件というのはどうだろう。一見すると、さほどの違いはないようにも思うのだが、どちらも一定の温度条件さえ整えばいいだろうか。

この点については、一方は空気、一方は土という違いが、何にどう影響されるかということになろうかと思うけれども、温度以外の条件では、経験的に風があるとたぶん霜は降らない。では、風があると、なぜ霜ができないか。また、土の中の霜柱もできないのだろうかというあたりがポイントになるかもしれない。

「霜降る夜に」などというが、霜がよくできるのは、放射冷却の強い夜である。放射冷却というのは、地表物の熱が赤外線として天空へと放出されていき失われることで冷えるものである。だからそれが起こり易い夜というのは、よく晴れていることはもちろん、風は穏やかで無風に近い必要がある。風が吹いて地表より少し上の冷却されていない空気が地表の空気に取って代わる、つまり、かくはんされると、地表が温められることになるからである。

このような放射冷却は、気象的にみると、広く高気圧に覆われた中心付近にあるときに起きやすい。高気圧の中心付近は、よく晴れるし、風もなく絶好の条件が整うことが多いからである。そして、このように高気圧に覆われて穏やかな冬の夜を「霜凪(しもなぎ)」という。まさに、霜のでき易い夜をよくあらわした美しい響きの言葉だと感心する。

とはいえ、これも一面であって、葉物を扱う農業では、霜凪は決して歓迎されるものではない、対処をしないと死活問題ともなる。東海道新幹線や東名高速を走る車の車窓から、静岡県内でよく目にする茶畑のファンをご存知だろうか。あれは、こうした霜凪に対処するために設置された畑の空気かくはん機であるわけだ。

結局、こうして考えてみると、気温がそれなりに低くても、風のある夜は地表の温度が下がらないため、霜ができにくいということだから、同じく風のある夜は、霜柱もまたできにくいように思われる。しかし、更にずっと寒い時、風が吹いて空気がかくはんされようがされまいが、空気全体が氷点下であるというような、厳しい寒さの中ではどうなのだろうか、厳冬の地に育っていないので、そのあたりは正直なところよく分からない。周辺の空気に対し、地表だけが冷えているのでないなら霜はできなそうだが、霜柱のできる地中は、少し違うような気もするのだが、このへんは、また、後の課題としておこう。

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初日の出と灯台

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~犬吠埼の灯台と初日の出~

元旦といえば初日の出。離島を除く平野部では日本一早いといわれる犬吠埼からの初日の出ならば、千葉に居住しているので、幸いなことにこれまで何度となく見てきた。

冬の関東はよく晴れるのだけれども、日が昇ってくる東の海上の水平線近くの空には、たいてい雲があるのが相場である。北西から山を越えて吹いてきてからからになった風が、平野部を抜け海上へ去った後、再び海から水蒸気を得て雲を発生させるのだろう。

だから、犬吠埼で初日の出を何度も見たといっても、正確な日の出(参照:日の出時刻と・・・)ではなく、ほとんどが水平線近くの雲の上に、最初に太陽が顔を出した「初御来光」といったところだろう。

犬吠埼など、初日の出の見所といわれる場所は、このときばかりは驚くほど人が集まりびっくりする。十数年前、私が犬吠埼燈台の近くに住んでいたときは、穴場の高台を見つけて家族だけで悠々日の出を見たものだが、そこから見下ろした海岸に沿ってびっしり人が連なっていたのには驚いた。

そこまで、たくさん集まらなくてもという気もしてくる。ドライに考えれば「初日の出」と特別な呼称をするけれども、日々の日の出と何も違いはない。日の出時間も、日の出位置も、日々わずかに変化してゆく中で、前日と翌日の差の間の値になるだけのことである。

けれども、日の出というのは、それだけでも見ていて気持ちが入るもの。何か心に沸き立つものを感じるもの。だから、気分が一新する新年最初の日の出ともなれば、重視されるのも無理からないことだろう。したがって、初日の出というのは、特に注視すべき現象という類ではなくても、宗教的意味も含めた人の心の中で、特別に意識される現象であるわけだ。

ところで、「犬吠埼」にも使われる「埼」の字が先般、常用漢字に採用されたらしいが、「埼」と「崎」の使い分けはちょっと難しい。海の突き出た陸の岬は、原則的にはみな「埼」らしく、「崎」のほうは、元来、平野部に突き出た山の地形を示すものだったようだけれども、実際には国土地理院の地図を含め、海の岬に「崎」と「埼」は混在している。

漢字の話題ついでに「犬吠埼燈台」の「燈」の字に触れるが、「燈」の字は常用漢字ではない。だから、1単語としての固有名詞なら「犬吠埼燈台」と「燈」で書くのが本来的となるが、固有名詞が「犬吠埼」という地名の方である場合は、「灯台」の方は普通名詞なので「灯」を使うことになるようだ。

この元旦、初日の出を見るために出かけることはなかったが、新年最初でなくても、日の出はいつも美しい。そのうち朝の海岸へ出てみよう。

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天使の梯子

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~神々しい光芒~

見上げる空の雲間から、放射状に降り注ぐ太陽の光。
その光が降り立つ地は、どことも知れない遠方なのだろうか、それとも、さして遠くはない見知った地なのだろうか。

光の道が雲の上から地にまで降りてきて、天上へのルートが開けたように見える通称「天使の梯子」。これは、特に珍しいものではなく、たいていの方が目にしたことのある現象なのではないかと思う。
気象の用語としては「薄明光線」といい、他の通称としては「天使の階段」や「ヤコブの梯子」などの名もある。

この現象の原理は、太陽を隠している雲の下の大気に、目に見えないような小さな水滴がたくさん浮遊しているようなとき、その水滴の大きさや量が程よく光を散乱し、光芒が見えるというもので、まあ単純なものではあるけれど、金色の朝日が雲間から漏れ出して、いく筋もの光線となって放射状に地上へ降り注いでいるような様など、本当に神々しく見えて、その名にふさわしいように思う。

天使の梯子は、どちらかといえば冬前後の朝夕に多く見られるのであるが(上の画像も冬の朝です)、必ずしも季節や時間を問わずに条件さえ合えば、いつでも現れるし、必ずしも下向きの光芒であるとも限らず、真横や上に向かう光芒もある。
真夏のまっ昼間でも、モクモクと湧き出して頭上近くまでせり出した入道雲から、上に向かって光芒を放つように現れることもある。

今年の夏の出だしは最高潮だ。太陽はジリジリと熱く肌を刺し、連日、温度計は恐ろしいほど数値を示す。今日も例外なく暑かった。
そして、そうこうしているうちに、先ほどから内臓に響くような低音が空に轟き始めている。まもなく夕立があるかもしれない。
見上げた入道雲の雲間から降りる「天子の梯子」も、冬のそれとはずいぶん様子が違うものだ。

(真夏の天使の梯子)
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秋分の日

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~さすがヒガンバナ、彼岸の中日に満開~

彼岸の中日、秋分の日となって、歩く道々の風景がすっかり秋らしくなったと感じる。

秋分というのは、ご承知のように昼夜等分の日、太陽が天の赤道を北から南へ横切って行く日であって、暦の上で重要な日である。

しかし、暦といえば、みなさんはこうは思わないだろうか、秋分は秋のど真ん中というけれど、秋なんて始まったばかりじゃないかと。

日本の暦は、何ともせっかちすぎると思うのだ。
つい先日まで、ジリジリとアブラゼミが昼に大合唱し、真の盛りを過ぎたとはいえ、暑さは真夏とほとんど変わらなかったのだが、今はコオロギなどの虫たちの涼しげな声が聞こえる夜は、すっかり凌ぎやすくなった。
様々な部分で、ああ、秋が始まったなあというべき環境が整ったのはほんのこの数日だと言えるのではないか。

日本の暦は、春分、夏至、秋分、冬至という、太陽の位置の基準日を季節の真ん中におく。しかし、これが季節感と暦の不釣合いの元である。確かに、そのようにすれば、太陽の南中高度(お昼ごろの見た目の高さ)と、これにともなう日光の明るさは、これをグラフにでも描けば季節とキッチリマッチする関係になるだろう。

しかし、季節=自然環境は、主に気温に支配されて移ろうというべきであるし、その気温(一日の平均気温)というものは、太陽に温められて徐々に温まり、また、冷えて行くのも遅れてゆくのであって、結局、太陽の位置基準からみると、一月半くらいピークが遅れるのである。

このため、暦と実際の感覚との差異をみると、暑さの絶頂時にいきなり秋が始まってしまい(8月の立秋)、秋らしくなったなあと思ったら、それはもう秋の真ん中で(9月の秋分)、もう一月半すれば立冬だ。

俳句など、風情を求める世界では、少しづつ密かに始まる次の季節を探すことも、大きな楽しみの一つといえるだろうけれど、私の感覚としてはどうも馴染まない。

洋の東西の好き嫌いではなく、暦については、西洋暦のように、春分、夏至、秋分、冬至という、太陽の位置の基準日を、季節の真ん中ではなく、初めとし、秋分は秋の始まりとしてもらいたいものである。

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北斗七星

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~春の宵空高く輝く七つ星~

春、いまごろの宵空には、北斗七星が北の空高くよく目立つ。ちょうどひしゃくをひっくり返し、北極星に水をかける形だ。

北斗七星は、昔の中国の星宿(星座のようなもの)を形成する7つの星の一団であるのだが、非常に知名度が高い。

日本で一般には、占星に関わる12星座(天文的には黄道12星座という。)の名はよく知られるが、それ以外の星々のまとまりの名称の中では、最も広く知られた名称のひとつだといえるだろう。

もっとも、黄道12星座の場合、名称は知られていたとしても、実際の星空での姿となると、よく知られている星座ばかりともいえないので、実際の姿を知っているという意味でいったら、全天でも片手に入る認知度の高い星々の一団といえるだろう。おそらく、憶測ではあるが、北斗七星はさそり座、オリオン座あたりと並んでベスト3くらいなのかもしれない。

天文学上の「星座」の世界標準は、国際天文学連合定義の88星座であり、北斗七星は初めに書いたようにその星座ではない(北斗七星はおおぐま座の一部になる。また、中国の星宿には、ほかに「斗」(南斗)や五車などが有名どころ。)。にもかかわらず、北斗七星が人々によく親しまれているのは、7つの星がそろって明るく、形もよく整っていて見やすい上、文字の持つ響きやイメージも印象深いことが要因だろう。

古来の日本においても、北斗七星は、七つ星又は四三星などという名で呼ばれたとされており、やはり同じ7つの星で一団と捉えられていたようで、このあたりからも目立つ星の固まりであることが分かる。ちなみにさそり座、オリオン座なども、同様に釣り針星、鼓星というような名で現在の星座と同様に一団とされていたようである。

私も初めて星の並びを覚えたのは、初夏の宵に北西の空に下り始めたこの7つの星たちだった。また、それだけではなく、幼かったその当時に、その名を聞き、かつ、星空の中に直接に姿を見たことが、その後、星、天文という世界に非常に強い関心を持ってゆくことになるきっかけとなったのだろうなと思う。

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内惑星

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~水星と金星が並んだ明けの空~

いつものように朝の床から出てすぐ、部屋のベランダへ出てみると、東の空低く家並のすぐ上に仲良く2つの輝星が並んで見えた。まだ寝ぼけまなこではあるが、水星と金星の姿であることは間違いない。

少し前の月初めには、金星は明け方の空のもう少し高い位置にあった。そして、いまも東の空にある木星が当時はもっと低い位置にあって、その2つの惑星が並んで輝いていた。そのときは、少しして月もやってきたため、なかなか賑やかであった。

水星と金星は、地球より内側で太陽を回っていて、このことからこの2惑星を「内惑星」ともいうが、そのために火星や木星など地球の外側を回る他の惑星とは違って、見かけの位置が太陽からそれほど離れることはなく、いつも明けの東の空か宵の西の空にしかその姿を見ることはない。

それでも金星の方は、水星と比べ、地球のすぐ内側を回っているので、太陽から最も離れる時の角度(最大離角という)は水星の28°に対し、47°とずっと大きくて、日の出、日没のそれぞれ直前直後には、空の中空近いあたりまで太陽から離れるため、空に見えている時間も長いし、空が暗いうち又は暗くなってからも見えているので、我々が目にする機会はずっと多い。

まして金星は、通常において太陽、月に次いで、全天で3番目に明るくなる天体である。星状に見える天体としては全天一の輝きだからこそ、明けの明星、宵の明星といわれて親しまれていて、金星であるということを意識して見ているかいないかはともかくとすれば、金星を目にしたことがない人はおそらくいないに等しいと思う。

これに対して水星は、見た目の明るさが決して暗いわけではないのであるが、太陽から最も離れて見やすい時期であっても、朝夕いずれかのごく短い時間に低空でしか観察できないため、とにかく見る機会が少ない。

少し前、1月半ばごろだったか、NASAの水星探査機「メッセンジャー」から送られてきた、水星表面の近接画像をご覧になっただろうか。水星の新しい近接画像というのも、私が子供のころ以来であるから、ずいぶん久しい話である。

1974~75年に水星に近付いたマリナー10号が、その過去の水星接近探索で唯一の例であり、今回のメッセンジャーの探査はまだ2回目の水星探査機接近であって、今回の任務が遂行されても、まだ、撮影できていない表面部分は残るというのは意外ではないだろうか。水星の自転と公転の周期は3:2であり、太陽に照らされた明るい面をくるくると回って見せてはくれないのである。

月が替わる頃、この2つの内惑星はもっと接近するようなのでこれから数日は毎朝の起きる楽しみにしておきたい。また、今月初めと同様に、今回もまた、もう少し日が経つと月がやってくるから、明けの東の空は、月、水、木、金と賑やいだ空になるだろう。

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ホームズ彗星の拡散

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~その見かけの大きさ満月大~
(07.11.13 APS-C500mm画角で撮影)

最初見たときは、視面積を持った恒星のようだったホームズ彗星だったが、アウトバーストを起こして吹きだしたガスはどんどん拡散し、日を追うごとに見かけの大きさが大きくなってゆくのが分かる状態が続いていたが、それもとうとう満月と同じの大きさにまでなってしまった。

拡散するにつれ、面積あたりの光度は低下してきており、全体の明るさは最も明るかったころの2等台からだいぶ暗くはなった。それでも、まだまだ肉眼でもよく見えるし、双眼鏡なら視界に大きくその姿を見ることができる。

もちろん、カメラで充分露光をかけると、まぶしいほどに明るく撮影できるので、まだまだ楽しみは続く。

ところで、あの長く尾を引く、通常の彗星の姿というのはよく知られたところであるが、他の天体との実際の大きさを比較すると、いったい、どのくらいのものであるのか、あまり意識したことがなかった。

現在(07.11.13)、肉眼で見えるガス部分がだいたい満月と同じくらいの視直径であり、データを拾うと、ホームズ彗星までの距離は、おおむね1.6AU(1AU=1天文単位は、地球と太陽の平均距離)ということだから・・・なんと!月と比べようかと思ったのであるが、月と太陽は概ね視直径は同じであるわけだから、ホームズ彗星のガスの広がりの実際の大きさは太陽の直径の約1.6倍ということか。まったく想像外の大きさだ。
ちなみに、現在の月までは約0.003AUで太陽までは0.990AUということであるから、それぞれの地球からの距離の数値がそのまま直径の比になるはずだ。

もっとも、今回のホームズ彗星は、尾が地球からの見た目で主に真後ろの方向に伸びていてるらしいと前回書いたが、つまり、上記の直径というのは、彗星を正面から見たときのあの彗星の頭の部分の太さとは限らず、後ろに伸びた尾が広く拡散したものであるのだとは思う。

今回のホームズ彗星は、その明るくなった原因や見る方向のため形こそ変わっているが、見た目の大きさそのものが他の明るくなる彗星と比べて、特に大きいというわけではないと思う。彗星というものの大きさをあらためてよく考えてみると、みなこんなに大きいものであったわけだ。確かに、地球の軌道に極めて近くを通る彗星などは、空いっぱいに広がることもあるくらいだ。それにしても、意識したことがなかったとはいえ、予想外のサイズである。

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ホームズ彗星

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~彗星はもともと突然現れるがこれはかなり特別~
(07.11.04 APS-C500mm画角で撮影)

突然の訪問者に驚かされた。10月末に急激な増光(アウトバースト)が見つかり、その後さらに増光したホームズ彗星である。
増光直前の17等級という明るさから、一気に2等級後半くらいまで明るくなった。1等級は6等級の100倍の明るさで、1つの等級の差は約2.5倍であるから、実に14等級の差はなんと40万倍もの増光があったということになる。

彗星という天体は、太陽を1つの重心とした楕円か双曲線の軌道をを描く、汚れた雪だるまのようなイメージのもので、明るく見える彗星の多くは、遠方から飛来して太陽の近くまでくると、その構成物をガス状に吹きだし、それが太陽風に流されて太陽とは反対方向へ尾を形成する。尾は、彗星自体の進行方向とはあまり関係がない。あくまで太陽と反対方向へ延びているところがポイントである。

通常の彗星にしても、急に明るくなること自体は変わらない。まさに彗星のごとく現れる。しかし、それは、上記のように太陽に近づいた結果として、近づくにしたがい比較的急に増光してはゆくが、ほんの数時間、数日でこんなに大増光することはない。

今回のホームズ彗星は通常パターンでいま見えているのではない。この彗星は、さほど細長い楕円軌道ではなく、離れても木星の軌道付近、近付いても火星の軌道付近より外側という具合に、木星の重力で捉えられたような軌道を回る彗星のグループの1つであると思う。今年の5月に既に太陽に最接近し、現在少しづつ離れつつあるところであるが、なんらかの弾みで、その構成物を急速大量に放出したものと思われる。

そして、面白いというべきかどうか、ちょうど太陽からみて地球の向こう側の位置にあるため、地球からは真後ろに尾を引いている位置関係となり、その尾を長く引いた見慣れた彗星の姿ではなく、まん丸ななんだか不思議なガス体が宙に浮かんでいる感じである。
11月4日に双眼鏡や望遠鏡で見たところでは、満月の半分くらいのぼんやりした見慣れぬ物体としてペルセウス座の方向に見え、肉眼でも、一見比較的明るい星、よく見るとぼんやりと面積を持った天体に見える。

このような彗星の大増光を見ることが出来るのは一生のうちにもそうはない。ここ数日の間、この突然の訪問者の不思議な姿を楽しく追っている。

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