落トンボ

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~11月の沈む夕陽に~

11月ともなると、野山はすっかり寂しげな色を呈し、草むらに踏み入ったときの枯れ草の匂いや、驚いて飛んでいくイナゴやバッタの姿、風もないはずの静かな林にカサカサと落ちる枯葉の音に、ああ秋も深まったなあと思わずにいられない。

そんな晩秋の野原にも、まだ、アカトンボの姿を見ることができる。赤とんぼと呼ばれるアカネ属のトンボたちは、思いのほか秋遅くまで、あるいは初冬までその姿を見ることができる。

秋真っ只中の10月には真っ赤に染まっていた身体も、秋が終わりを告げるころには、赤ワインのような深く沈んだ濃赤となり、翅もあちらこちらが破れている。

夏に羽化した頃は、まだ若く機敏で、少し近づいただけでも、さっと飛び立ち近寄りがたいが、このころになると、重ねた経験の余裕なのか、気温が下がって代謝が低下しているからか、事情はわからないが、かなり近づいても逃げたりせず、何だか歳で気力が低下してるようにも感じさせる。

繁殖期も終え、次世代へ命を繋ぐ役目を無事に果たした彼らには、残された日々をゆるりときままに過ごさせてあげたいが、さして遠からず冬が来る。

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越年(その2)

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~草の中に輝くブルー~

成虫の姿で越冬するトンボは、わずか3種ということを前回書き、アオイトトンボ科の「ホソミオツネントンボ」を紹介した。今回のトンボは、体の大きさの割りに、胴がやけに細長いイトトンボ科の「ホソミイトトンボ」である。

ちょっと見ただけでは、それほどの違いを感じないかもしれないが、両種はそれぞれ科も違うトンボであり、はっきりとした別種である。
体が細長いという以外では、翅の付け根の胸のブルーの部分に入る1本の黒ラインの形状が、見た目の上での特徴といえるだろう。

真冬をしのぎきったこれらのトンボは、まだ他のトンボがほとんど羽化していない春から、活発に活動し、こうして既に次の世代へ繋ぐ準備が始まる。

写真は、もうかなり気温の上がった5月になってからのものであるが、草の原の中で小さいけれどもひときわ目を引くブルーが、宝石のように美しくも生命の活力を感じざるを得ない。

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越年(オツネン)

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~冬を越すトンボ~

オツネンとは、文字どおり、古い年を送り新しい年を迎えることで、ふつう年越しともいう。最近は、「越」の字の一般的な音読み(当用漢字音訓表の読み方)に倣ってか「エツネン」と読む傾向にはあるが、伝統的には、「越」の呉音である「オチ」から「オツネン」と読んできた言葉である(ちなみに「エツ」は漢音である。)。

ところで、日本の生き物たちの生活は、移り行く四季に大きく支配され、特に年の変わり目となる冬を越す方法は、その種の繁栄のための戦略にも大きくかかわる。

昆虫たちは、基本的に冬は苦手であり、寒い冬を、卵、幼虫、蛹などの姿で越すものが多い。トンボや蝶のような昆虫が日本の冬に元気に飛んでいるということは、めったにあることではないのである。

写真の細いトンボは、「ホソミオツネントンボ」といい、成虫の姿で越冬する数少ないトンボである。蝶の仲間には、アカタテハの仲間など、成虫の姿で冬を越すものが案外いるのだが、日本のトンボの中で,ほかに成虫で越冬するのは,ホソミオツネントンボと同じアオイトトンボ科の「オツネントンボ」と、イトトンボ科の「ホソミイトトンボ」の3種だけとされる。

そうはいっても、真冬にこれらのトンボの姿を見ることは、そうはないだろう。彼らも冬は日当たりの良い斜面などで休眠しており、気温が上がったときだけ活動しているようである。

ホソミオツネントンボは、褐色の成虫の姿で越年し、早春、15~16度になると活動を再開する。そして気温が一定の温度になると全体に青色を呈するようになり、この青色は美しい。しかし、低温が戻ると、体色が褐色に戻ったりすることもあるらしいから面白い。

春先に、野山を歩き年を越してがんばってきた彼らに出会うのは、なんとなくうれしい気がするものである。

ほかに「越年」が名に付くところで「越年蝶」がいるが、これはモンキチョウの別名で、モンキチョウは幼虫で越年するところ、比較的早春のうちに成虫になるためか、成虫の姿で越年するように勘違いから呼ばれた名であるようである。また、アブラナやハハコグサなどのように、秋に発芽して越冬した春に開花する草を「越年草」という。

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シュレーゲルアオガエルの抱接

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~地中の儀式~

谷津田に響くシュレーゲルアオガエルの大合唱。春の風物詩に欠かせない1つである。
今年も桜の咲き誇る小路で、また、スミレの咲く斜面で、うららかな陽気に心地よく響くその美声を聞かせてもらった。

姿も声もアマガエルよりちょっと上品な感じのアオガエルたちは、繁殖のため、この季節には本拠である森から水田へとやってくるが、水辺の畦道の裂け目など、土の中に潜り込んでいるため、姿はなかなか見つけられない(→シュレーゲルアオガエル)。

カエルの繁殖活動はオスがメスの背に抱きついて行なう「抱接」が多く、土の中の穴に産卵するシュレーゲルアオガエルも、土の中に作られた穴蔵から美声を放って待つオスの下に、メスがやってきてめでたく抱接となる。

陽射しも暖かく風爽やかな日に畦を歩くと、いつものように田のあちらこちらから「コロロロ、コロロロ」という声が聞こえる。注意して他の穴や、畦の水辺を見て回ると、シュレーゲルアオガエルの卵のう(泡に包まれた卵)がたくさん見つかった。

さらに念入りに畦の様子を伺いながら歩くと、それらしい穴が目に付いたので、そっとのぞくとそこにアオガエルのつがいが一組よろしくやっていた。2匹で一緒にいるのを見ると、雌雄の大きさにはずいぶん違いがあるものだ。自分の二倍はあろうかというメスの背にオスがしっかり捕まっている。

ツボカビなどの病原や適合環境の縮小で、小さなカエルたちはいまや絶滅も危惧されるほどの受難のときを迎えている。けれども、今のところ、ここではこうして一つ一つの個体がりっぱに営みを繰り返し、この種も安泰に生きながらえているんだなあと、感慨深く様子を見守らせてもらった。

Fs5pro2009_0419_124341_2穴の中でメスを待つオス

Fs5pro2009_0419_123808地中の卵のう 

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アオサギが泳ぐ

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~見たところかなり自然です~

家から出てすぐのところ池があり、水辺にはたくさんの鳥たちが集まってきて楽しませてくれる。きれいでかわいらしいカワセミが一番の楽しみではあるが、カワウやダイサギなどの大型のものもなかなか楽しい。

常時この池で陣取っているアオサギが一羽いる。アオサギは、とても大きなサギで、この池にくる鳥では多分最大で、とても風格があるが、結構警戒心も強く、あまり近くまで寄って観察することはできない。

アオサギの「アオ」は灰色を指すらしく、体の背面はやや青味がかった灰色。体長が首を伸ばすと90cmくらいもあり、翼を開ろげると1.8mほどにもなる。ちょっとツルっぽい感じもあるが、首を折り曲げて飛ぶ姿はまさしくサギそのものであり、日本にいるサギ類の中ではもちろん最大である。

先日、カワセミを観察していると、アオサギのいつも陣取っている場所の近くで、ダイサギが景気よく餌を摂っていた。この真冬に小魚がいるのか。それとも泥の中から小虫をつついているのか定かではないが、こごんで水辺をつついてはゴクリ、つついてはゴクリと、なかなか採取の確率はいいようだ。

アオサギには、これが面白くないらしく、翼を大きく広げて近寄づいては威嚇し、ダイサギを追い払おうとする。ダイサギもアオサギよりは少し小さいものの、白鷺の中では最大級。いったん逃げてはいくが、すぐちゃっかりと戻ってくる。互いにバタバタと翼を拡げあっての大物同士の争奪戦は、見ごたえもあった。

そうこうしているうち、なにかの音に驚いたか、それとも私の姿を悟られたのか、ふいにアオサギが池の中心方向へと真っ直ぐ飛び立った。いつもはこのまま、対岸の樹の中ほどの枝に止まるのが常であるが、この日はちょっと経路が違う気がした。そして、あらら・・・あまりに思わぬことだったので呆然と見ていたが、池の中心付近に、水鳥たちのように降りてしまった。

アオサギは水辺というものなしには存在しないものの、シラサギ同様に水を泳ぐことはしない。水かきのない足を見ればそういう鳥でないことは明らかである。しかし、目の前で悠然と、ぷかぷかと泳がれてしまうと唖然とするほかない。

超望遠レンズ装着でカメラを構えていたし、飛んでいる姿をファインダーで追ってさえいたのに、水に落ちそうなのにびっくりして裸眼になり、問題の着水シーンでは、既に目が点になっていて撮れずじまいである。

アオサギが泳ぐらしいことは、ネット上などでも、目撃が取りざたされているようである。ひょっとすると長い足で、比較的浅瀬を蹴って動いているのではないかともいわれるようだが、どうも、今回目撃した着水地点あたりが、それほど浅いとも思えないし、すぐ近くをカワウが泳ぎ、潜水を繰り返していたくらいである。

だいたい水上での動きがあまりにスムーズであり、少なくとも、体重は完全に水に任せていて、かろうじて足の先が推進力を与える程度だけ水底まで届いている可能性を残すくらいで、むしろ、自力で水をかいて泳いでいるといった方が自然に見えた。

それにしても、当たり前に見える自然風景も、こんな風に、たまに驚かせてくれるものである。アオサギは暫しの遊泳を楽しんだ後、驚いたことに水から直接飛び上がり、再び飛んでいつもの陣地に戻ってきた。

「カワウといっしょに泳ぐアオサギ」「ダイサギを追い回すアオサギ」→四季の扉、九色の窓(アオサギって泳ぐんですね)

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ツマグロヒョウモン

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~以前は迷蝶だったのだが~

昨日の朝、アザミの花を眺めていると、ふわふわとやって来たツマグロヒョウモンの雌に出会った。珍しい蝶に出会ったものだと思ったが、その日のうちに、別の場所で2回見かけた。また、今日も2回見た。

ツマグロヒョウモンは、雌雄で翅の模様が大きく異なる蝶で、特に雌の色模様は素晴らしい。そして、本来は南方系の蝶であって、私の住む千葉県には、少し前までいなかった蝶である。

鮮やかな雌の色模様は、やはり南方系の蝶で毒をもつカバマダラに擬態しているとされているが、私の感想としては、カバマダラの毒による捕食防御効果さえ怪しいと感じている(→八重山を歩く(4) 八重山の蝶)のに、それに擬態する必要性となると、かなり怪しいような気もするのだがどうだろうか。

まあ、それはともかくとして、雌の翅のオレンジ~スミレ~白の地に黒紋の色模様は文句なく美しいと思う。なお、前記事のメスグロヒョウモンもそうだったが、このヒョウモンチョウも性的二形を示し、雄の翅は、オレンジ地と黒紋だけの典型的な豹柄である。ただ「褄黒豹紋」の和名が示すように、後翅の外縁に黒い縁取りがやや特徴となる。

さて、この蝶の分布域はかなり広く、アフリカ北東部から東南アジア、オーストラリア、そして日本など東アジアにまでというふうに熱帯から温帯域にかけてである。ヒョウモンチョウの仲間は比較的涼しい地方に分布するほうが多いと思うが、このような南方系の分布もこの蝶の大きな特徴だろう。

そして、日本では、南西諸島に多く分布し、九州、四国のほか、本州では紀伊半島あたりまでというふうに図鑑などでは記載されていて、稀に関東で見ても迷蝶という扱いだった。しかし、どうもこの20~30年くらいの間に急速に生息域を北上させ、ごく最近では栃木県など北関東でもほとんど定着してきているようなのだ。

北上の原因などは、そう簡単に判るものではないと思うけれども、一般には、幼虫がスミレ類を食草とし、園芸種のパンジーなどでもよく食べることから、こうした園芸植物の出荷によって分布を拡げたのか、又は、単純に地球温暖化の影響などという憶測がよく見られる。

私は、そうした人間の影響よりも、この美しい蝶が、主体的に勢力圏を広げ、自らやってきたんだと信じたいのだが。

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メスグロヒョウモン

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~蝶の中では際立った性的二形~

すっかり秋が深まって、朝夕にはほどほどの冷え込みが感じられるようになった。あたたかなこの地方だから、日が射してくれば、たちまち暑いもといえるほどになるので、まだ冬の気配というには遠いのだが、休日朝の林の散歩が気持ちいい。

散歩の帰り道を辿る頃、日も十分に高く昇って気温は上がり、赤トンボやシジミ蝶やアブも飛び始めた。
すると、茶色というのか暗褐色というのか、ともかく暗い背景にくっきりと白い条を浮かび上がらせたやや大きめの蝶が、ふわりと目の前を飛んでいった。

その姿に、すぐにオオイチモンジの名前が浮かんだ。しかし、このあたりにオオイチモンジがいるということは多分ないし、時期も違う。

直後、その蝶はふわりと近くのアザミに止まった。けっこうな大きさがあるので、動作も翅の文様もとても優雅なものに見える。

蝶の翅をよくみると、イチモンジ、フタスジ、ミスジといった暗褐色に白条の蝶のグループとは、スジの形がどうも違うことがわかる。この蝶はヒョウモンチョウの仲間なのである。

ヒョウモンチョウといえば、もちろんオレンジ色に黒い点の「豹紋」がトレードマークなのであるが、この蝶は、オスが普通のヒョウモンチョウの仲間らしい姿であるのに対し、雌はイチモンジチョウのような色模様をしているのである。

それにしても、この優雅な姿の蝶に、あまりにダイレクトな名前は、やや興ざめる気もするが、「メス黒」であるのは確かである。いわゆる「性的二形」というやつだ。

「性的二形」というのは、一般に雌雄の第二次性徴の差がはっきりしていることをいう。つまり生殖器以外の部分での雌雄差が大きいことである。

カブトムシや鹿などのような角を持った生物などが一番分かりやすいだろうか。
様々な生物に見られるものではあるが、蝶としてはメスグロヒョウモンはかなりはっきりしている方といえるだろう。

じっと見ているうちに、やがて蝶はふわりと舞い上がって、林の樹木の上のほうへと姿を消していった、あたりは光が消えたようにまた静かな林に戻る。10月も下旬に入り、こうして蝶を頻繁にみることのできる季節も終わろうとしている。しばらくは、林の散歩道も静かな道となるだろう。

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カマキリの偽瞳孔

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~小さな黒目はかわいいけれど~

カマキリの目は、なかなかいかしている。
カマキリを間近で見慣れている方はよくご存知だと思うが、大きな目の中に人の目の黒目と似たように小さな黒い点があって、その点がこちらを向いて、注意深く様子を窺っているように見えるのである。

しかし、昆虫であるカマキリの目は、人とは違い複眼であり、小さな目が球状に集まっているその全部が目であって、人の黒目(瞳孔)と同じようにそこだけが見えている場所ということではない。

実はこのカマキリの目の中の黒い点は、それ自身の構造的なものなのではなく、カマキリの目を観察しているこちら側が、球状に集まった数ある複眼の中でそのあたりだけ奥まで見通せるという角度の部分であり、その結果として、光が返ってこないから黒っぽく見えるというわけで、単に観察者側にだけ見える見かけ上のものに過ぎないのである。

そして、この黒点を偽瞳孔といい、その他の部分は、観察者の目からは奥まで見えないので、個々の目の内部の反射光で明るく見えているに過ぎないのである。

試しに、こちらを向いているカマキリの偽瞳孔を観察しつつ、同時に手に持った鏡で違う角度からカマキリを覗き込めば、そこにもまた、鏡を通してこちらを窺っていると感じる位置、つまりは実像とは別の場所に偽瞳孔を見つけられるだろう。

ただし、カマキリの目には、これとは別に、夜になると複眼全体が黒っぽくなり、これによって総合的な集光力を上げられるという面白い能力も持っているから、なかなか侮れないところもある。

偽瞳孔は、トンボやバッタなどにも見られるのであるが、カマキリのものとは若干状態は違う。カマキリの偽瞳孔は、本当の瞳孔を見慣れている人間にとって、人の目の瞳孔とかなり似ているから、それがいつもこちらを見ているように感じる分、ちょっとした親しみなど感じてしまうものである。仕組みがどうであっても、この偽瞳孔のために、カマキリの表情を豊かに見せていることは間違いない。

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次世代のアリジゴク

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~何匹かの成虫が巣立った後に~

我が家の軒下に住むアリジゴクが、6月から7月に次々と巣立っていった。
巣立っていった彼らの余命は僅かな日数であったとはいえ、これまで見守ってきた幼生たちが、美しい翅を持ったウスバカゲロウとして、長い地下の生活から空へと旅立ったことは、やはりうれしく思われた。

一方、今シーズン中には変態を遂げなかった何匹かのアリジゴクが構えるすり鉢も残ったが、8月に入ると、そのすり鉢の合間にいつのまにやら小さな小さなすり鉢がぽつぽつと目に付くようになった。可愛らしいその小さなすり鉢が日増しに増えて、これもまたうれしく感じたのだが…

もう何回となく書いたことではあるけれども、繰り返して書くと、ウスバカゲロウは短命であると儚まれがちであるのだが、実際に短いといえるのは成虫の期間に限った話であって、一生の長さがさほどに短いわけでもない。また、昆虫の成虫というのは必ずしもその生物の完成型といっていいものだろうか。土の中で過す幼生期の姿こそが、この昆虫たちの本質であって、成虫は生殖活動のためだけの特殊形態だとしたって、決しておかしなことではないだろう。そうだとすれば、土の中とはいえ本質である幼生期の期間の長さを考えれば、1年以内の一生しかないことなどザラにある昆虫の中にあっては、むしろその命は長い方というべきである。

しかしである、ふだんはそうやってドライに即物的に考えているのだが、夕暮れに小さなすり鉢をじっと見ていたら、少し違う思いに陥った。

この新しく出現したアリジゴクの小さなすり鉢は、6月に巣立ったウスバカゲロウが直後に生殖活動をした結果なのであろうか。仮にそうだとしたら、ちょっとうれしくなりはしたが、その一面で生命の無常のようなものを感じたのである。

アリジゴクの活動は本当に辛抱強くエサとなる小虫の落下を待つばかりの受動的な生き方である。それをほとんど一生かけて継続し、最終的にはほんのひと時だけ子孫の存続のために成虫となって生殖する。そして子孫は再び親とまったく同じように、その一生を辛抱強い地中生活で過ごすわけである。さらにその繰り返しが何百何千世代と続いてゆく。

この生き物が生命活動を持っていることに、果たしてどんな意味があるのだろうか。いや、地球では最も高等な活動を成し得る生物であるはずの人間だって、その点、たいした変わりはない。違うとすれば、プラスアルファとして、子孫に対し、記録と造作という身体以外のものごとを伝え残す術を種々持っていることくらいである。それが大きな違いだといえば大きいともいえるが、例えば宇宙全体としてというような、より大きな意味を考えたら、それがいかほどの価値を持つものなのだろうか。

そうはいったところで、私は生命に悲観しているわけではない、果たして生命という不思議なものは、どのような意味を持つものか、なにか目的というものがあって存在しているのではなかろうか、それとも、偶然発生してしまい漫然とそこに存在して、環境の影響を受けてたまたま変化(進化)しているだけなのだろうか、不思議がより一層不思議に感じられる思いに陥ったというまでのことである。

アリジゴクの新しく小さなすり鉢の数を数えてみると15ほどはあるようだ。これらの子アリジゴクがウスバカゲロウとして巣立ってゆく日までまた見守ってみようと思う。

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カブトムシの角

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~デザインされたかたち~

山の朝、霧の空気に肺が洗われるように思われた。霧の森、天井から朝の光が条となって差し込んでくるのを見上げながら木々の間を歩いていると、一匹のカブト虫に出会った。

ずっと、見慣れてきた形であるからという理由だけなのか、それはよくわからないが、日本のカブトムシの角は、とりわけ均整のとれたものであるように感じられる。

そんなことを思いながら、カブトムシの角をまじまじと見てみる。大きな角は、頭部からすっとまっすぐに伸び、先のほうで2つに分岐し、分岐した先端で更にそれぞれ分岐する。
そして、小さな角が胸部からせりあがるように持ちあがって、これも先端で2つに分岐し、大小の角は、それぞれ互いの方へ向かって反るような形状で、ものを挟み込むこともできる。

これはどのような志向でデザインされたものであるのだろうか、または、どのような必然性があって進化とともに形作られたのだろうか

この形が美しいのかどうかはともかくとして、このような形状を作りだす生命には不思議を感じざるを得ないが、そこには、他の生物のデザイン一般ともどこか共通した、成形における一定の秩序が隠されているように思えてならない。

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